スペイン 風邪 症状。 スペイン風邪、猛威の記録 100年前の記事で新型コロナと比べてみた|【西日本新聞ニュース】

スペイン風邪、猛威の記録 100年前の記事で新型コロナと比べてみた|【西日本新聞ニュース】

スペイン 風邪 症状

新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している()。 パニックや流言飛語も相次いでいる。 しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。 今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか? 本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した 「スペイン風邪」を取り上げる。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。 速水(左)、内務省(右) ・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。 そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。 現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。 1918年春。 アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。 当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。 このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。 アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、 こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。 当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。 ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。 それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。 そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。 スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。 国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。 日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。 ・「スペイン風邪」、日本に上陸 日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。 当時、 日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。 「前流行」は1918年の感染拡大。 「後流行」は1919年の感染拡大である。 どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。 ともあれ、このスペイン風邪によって、 最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0. 8%強に当たる45万人が死亡した。 当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、 日本統治下全体での死者は0. 96%という(速水,426. 以下、図表参照)。 1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。 日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。 単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。 これは大阪市の人口の約半分にあたる。 筆者制作 ・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も 「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。 以下速水より。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 福井県九頭竜川上流の山間部では、 「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。 出典:速水,161 (岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、 市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。 (1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し 出典:速水,168 神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、 処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。 出典:速水,128 など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。 とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。 だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。 ・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。 結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。 なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。 人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。 実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。 つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。 当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。 当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。 それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。 今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。 大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。 驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。 以下、内務省から抜粋したものをまとめた。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 ・はやりかぜはどうして伝染するか はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。 かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。 ・(はやりかぜに)かからぬには 1. 病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ 2. たくさん人の集まっているところに立ち入るな 3. 人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい ・(はやりかぜに)かかったなら 1. かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ 2. 病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ 3. 治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな (内務省,143-144) 部分的に認識違いはあるが、 基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。 そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。 またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。 マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。 ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。 病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。 だが、当時の技術ではそれが限界だった。 ・100年前も全面休校 休校イメージ、フォトAC 各自治体の動きはどうだったか。 とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。 1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。 人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。 学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。 そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。 このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。 なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、 日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。 そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。 つまり、 スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。 残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。 だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。 このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。 採るべき方針はあまり変わらないように思える。 すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。 実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。 ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。 ・100年前もデマや流言飛語 満員電車イメージ、フォトAC 最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。 現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。 とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。 日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。 そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。 どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。 デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、 「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。

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スペイン風邪、猛威の記録 100年前の記事で新型コロナと比べてみた|【西日本新聞ニュース】

スペイン 風邪 症状

1918年、ワシントンD. のウォルター・リード病院でインフルエンザ患者の脈を取る看護婦。 Photograph by Harris & Ewing Inc. 1918年に大流行したスペインかぜ(インフルエンザ)では世界中で5000万人が死亡したが、犠牲者が主に若い健康な成人だったのはなぜなのか、これまで明らかになっていなかった。 答えは驚くほどシンプルだ。 1889年以降に生まれた人々は、1918年に流行した種類のインフルエンザウイルスを子どもの頃に経験(曝露)していなかったため、免疫を獲得していなかったのだ。 一方、それ以前に生まれた人々は、1918年に流行したインフルエンザと似た型のウイルスを経験しており、ある程度の免疫があった。 今回の研究に携わった科学者らは、ヒトと鳥のインフルエンザ株の遺伝子が混じった1918年型ウイルスの構成要素がどう進化して来たかに着目した。 1830年まで遡り、優勢なインフルエンザ型の移り変わりを明らかにした。 進化生物学者らは、1889年にA型インフルエンザH3N8亜型、通称アジアかぜ(ロシアかぜとも)が世界中で流行したことで、子どもの頃にH1N1株のスペインかぜに似た型のウイルスを経験する機会を持たなかった世代があることに気づいた。 インフルエンザウイルス亜型の名称におけるHとNは、それぞれヘマグルチニン(hemagglutinin)およびノイラミニダーゼ(neuraminidase)という蛋白質を表す。 1900年以降、スペインかぜに似たH1亜型が流行したことで、それ以降に生まれた子ども達には部分的な免疫ができ、ウイルスに対する「脆弱性の窓」が閉じた。 研究を主導したアリゾナ大学の生物学者マイケル・ウォロビー(Michael Worobey)氏は、「史上最悪のインフルエンザのパンデミックで罹患者が最も多かった高齢者は、基本的にほとんどが生き残った」と述べる。 一方で、18~29歳の年齢層では大量の死者が出て、罹患者の200人に1人の割合で亡くなっている。 専門家らは、1918年におけるパンデミックの発生を脆弱性の窓という観点から部分的に説明できるのではないかと考えている。 コロンビア大学のウイルス学者、ビンセント・ラカニエロ(Vincent Racaniello)氏によると、今回の新しい研究ではコンピューター解析によって1918年型インフルエンザウイルスの前駆体が1907年頃に発生したことが判明した。 このことで、脆弱性の窓がどのようにして開き、また閉じたかが説明できるという。 この発見は、猛威を振るう鳥インフルエンザがヒトへ感染するのではという不安の高まる中、将来のパンデミック予防に役立でられる可能性がある。 また、インフルエンザワクチンの摂種法も変わる可能性がある。 現在のようにそのシーズンに流行が予想されるウイルスに対してワクチンを摂取するのではなく、子どもの頃に免疫を獲得できなかった株に対してワクチン接種を行うようになるかもしれない。 たとえば、2009年のH1N1亜型によるパンデミックはアメリカ疾病予防管理センターの発表によると世界中で28万4千人の死者を出し、この型は現在、優勢となっている。 「シーズンごとにインフルエンザの流行型が変動するのは普通のことで、毎年新たなワクチンを開発するのもそのためだ」と、シアトルにあるワシントン大学の免疫学者、マイケル・ゲール・ジュニア(Michael Gale Jr. )氏は述べている。 また、あらゆる型のインフルエンザを予防する万能ワクチンが実現する可能性もありそうだ。 研究結果は「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌で公開された。 Photograph by Harris & Ewing Inc.

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インフルエンザは風邪に含めても間違いではない?「スペイン風邪」は風邪なのか?それともインフルエンザなのか?

スペイン 風邪 症状

スペインかぜ( スペイン風邪、: The Spanish Flu influenza )は、-に世界各国で極めて多くの死者を出した(当時はインフルエンザかどうかが不明での扱いをしていた)によるの俗称である。 時にであったためがされていなかったでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが最初の発生源という訳ではない)。 1918年パンデミックとも呼ばれる。 1月から12月までに世界中で5億人が感染した とされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当する。 その中にはの孤島やの人々も含まれた。 死者数は1,700万人 から5000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の1つである。 ではパンデミックの最初の年にが約12歳低下した。 近年 [ ]の研究により、スペインかぜはインフルエンザウイルスによるものと判明した。 H1N1によるは、スペインかぜと の2回である。 概要 [ ] 中の士気維持のため、、、、ポーランド、での病状や死亡の初期報告はにより最小限に抑えられた。 一方で中立国における伝染病の影響は自由に報道され 、の重病を初めとする多数の記事はスペインが特に大きな被害を受けたという誤った印象を生み出した。 ここから「スペインかぜ」という呼称が広まった。 しかし歴史的・疫学的データは、地理的起源を確実に特定するには不十分であり 、その起源には諸説ある(後述)。 ほとんどのの流行では、死者がとに偏り、その中間の年齢層の生存率は高いが、スペインかぜでは若年成人の死亡率がその他のインフルエンザと比較して高かった。 科学者たちは、1918年のインフルエンザ大流行の死亡率の高さについて、いくつかの可能性のある説明を提示している。 いくつかの分析は、がを引き起こし、強い致死性を得ることを示している(サイトカインストーム)。 サイトカインストームは、若年成人の強い免疫システムを破壊する。 これとは対照的に、パンデミック期以降の医学誌に対する2007年の分析では、スペインかぜのウイルス感染は、以前のインフルエンザ株よりも攻撃的ではなかったことが判明した。 その代わり、栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態が、細菌性の重複感染を促進していた。 ほとんどの犠牲者は、この重複感染が死因であり、重篤期間はやや長期化することが多かった。 表記 [ ] PSIカテゴリー スペインかぜと表記されることが多いが 、などでは スペインインフルエンザと表記する。 スパニッシュインフルエンザ(英語のSpanish Fluより)と表記されることもある。 当時の日本では(インフルエンザの総称である)「 流行性感冒(かんぼう)」とも表記された。 経緯 [ ] 一般的にスペインかぜでは1918年から1919年にかけて第1波から第3波まで3回の感染拡大が起きたとされている。 第1波 1918年3月— [ ] 1918年3月4日、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル Albert Gitchell という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜの症例とされている(それ以前にも記録にない感染例があった可能性が高い)。 同日にはギッチェルの同僚である他の100人以上の兵士も同様の病状を訴え 、ファンストン基地ではその後数日以内に計522人の罹患が報告されることとなった。 当時アメリカはに参戦中であり、ヨーロッパへ渡るの大規模訓練場として使われていたファンストン基地で始まったインフルエンザの流行は、他のアメリカ軍基地やヨーロッパへと急速に拡大した。 1918年4月を迎えた時点で、アメリカ中西部および東海岸、フランスの複数の港でが発生しており、4月中旬までに流行は西部戦線に達した。 その後流行はフランス全土、イギリス、イタリア、スペインへと広がり、5月中にロシア領、ドイツ領にまで到達した。 5月には北アフリカ、インド、日本にも感染が拡大し 、6月には中国でが報告されたが 、7月にオーストラリアに達した後、パンデミックの第1波は後退を始めた。 1918年の第一四半期に始まったスペインかぜの第1波は、比較的穏やかな波であった。 死亡率は平時と比べて際立って高いものとはならず 、アメリカで1918年1月から6月までに報告されたインフルエンザによる死者は最大7万5,000人にとどまり(1915年の同時期でも最大6万3,000人) 、スペイン・マドリードにおける1918年5月—6月の死者数も1000人未満だった。 一方で、第1波はフランス軍、イギリス軍、およびドイツ軍の兵力の多くを罹患させたため、第一次世界大戦の軍事作戦には大きな混乱がもたらされた。 第一次世界大戦中の士気維持のため、アメリカやヨーロッパの各国でインフルエンザの流行について報道統制が行われた一方で、中立国であったスペインでは被害の状況が自由に報道された。 首都マドリードでは1918年5月頃から第1波についての新聞報道が始まり、その後国王が罹患すると報道はさらに大々的になった。 第1波時にスペイン発の報道が注目された結果、発生源はスペインであると広く信じられ、このパンデミックは世界的に「スペインかぜ Spanish flu 」と呼ばれることとなった。 第2波 1918年8月— [ ] 1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスの、のという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始まった。 アメリカではおよびボストン近郊の ()から各地の軍事施設へと急速に感染が広がった。 大戦による軍隊の移動にも助けられ、第2波は2カ月のうちに北アメリカ全土に拡大し、その後、にも到達した。 ブレストで始まった流行は1918年9月末までにヨーロッパのほぼ全域に広がり、各国の軍事作戦も小康状態に陥った。 ヨーロッパの第2波はロシアにも拡大し、やを通じて北アジア全域へと持ち込まれた後、イラン(ペルシア)に達した。 1918年9月にはインド、10月には中国と日本にまで到達した。 1918年11月、に伴う祝賀行事がロンドンや、などで感染拡大を招いたものの、第2波は1919年12月までに世界的にほぼ収束した。 スペインかぜの感染拡大における3つの波。 グラフはイギリスにおける1918年6月—1919年4月のインフルエンザおよび肺炎による人口1000人当たりの死者数 スペインかぜの第2波は通常のインフルエンザに類似していた第1波とは異なり、健康な25—35歳の若年者層において非常に高い致死性を示し、死亡者数も大幅に増加した。 第2波の最中である1918年10月はパンデミックの全期間中で最も多くの死者を出した月となった。 第3波 1919年1月— [ ] 1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した。 その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリでに出席していたアメリカ大統領も罹患した。 第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した。 日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた。 第3波の毒性は第1波よりも高く、第2波よりも低かった。 アメリカにおける1919年1月—6月のスペインかぜによる死者は数万人であった。 スペインにおける1919年のインフルエンザによる死者は約2万1,000人であった(1918年の死者は約14万7,000人)。 第3波では最初に・の感染者が多く、してしまったため、感染被害が拡大した [ ]。 この経緯を教訓とし、の際にはを医療従事者に優先接種することとなった [ ]。 世界規模で猛威を振るったスペインかぜであるが、世界規模に広がったことにより、死者も甚大になった一方で、生き残った人はを獲得して、を形成することによって、感染者の減少へと繋がって収束した [ ]。 起源 [ ] スペインかぜ(1918年パンデミック)の起源については諸説あるが、いずれも仮説の域を出ていない。 フランス [ ] ウイルス学者 ()は、1918年パンデミックの起源を第一次世界大戦中フランスの ()に存在した大規模なイギリス陸軍の駐屯地と推定している。 オックスフォードの研究によれば、エタプル駐屯地では1916年末にスペインかぜと症状が類似する致死率の高い新種の病気が流行し 、その後1917年3月にはイギリス本土のにある陸軍の兵営でも同様の流行が発生しており 、イギリス軍の病理学者はのちにエタプルおよびオールダーショットで流行した病気が1918年のスペインかぜと同一のものであったと結論づけている。 オックスフォードはエタプル駐屯地について、常に約10万人の兵士が密集した状態で存在しただけでなく、敷地内に大規模なの飼育所があり、周辺の市場から生きたや、が持ち込まれていたなど、呼吸器系ウイルスが流行するためには理想的な環境であったと指摘している。 北米 [ ] アメリカ合衆国は複数の研究者によってスペインかぜの起源と考えられている。 歴史学者は1918年パンデミックがアメリカのに起源を持つと述べている。 同様に、 ()はカンザス州ので1918年1月に発生した病気の流行がスペインかぜの起源であるとしている。 CDC は、アメリカではとに既にインフルエンザと肺炎による死亡率の急増が見られていたと指摘する一方で、この現象と1918年パンデミックとの関連性は不明としており、パンデミックの地理的な発生源を特定するには歴史的・疫学的なデータが不足していると述べている。 他に、ののがのブタに感染したとの推定もある。 中国 [ ] のウイルス研究者クロード・アヌーン Claude Hannoun は1993年、スペインかぜのウイルスは中国からもたらされた可能性が高いと主張した。 アヌーンは、中国に由来するウイルスがアメリカのボストン近郊で変異したのち、フランスのに渡ってヨーロッパ全域に広まり、その後の兵士を主な媒介者として全世界に広まったとの見解を示した。 歴史家マーク・ハンフリーズ Mark Humphries は、第一次世界大戦中イギリス・フランス軍後方での作業に約9万6000人の中国人労働者が動員されたことが1918年パンデミックを引き起こした可能性があると述べている。 ハンフリーズによれば、1917年11月に中国北部で流行した呼吸器系の病気はのちに中国の検疫官によってスペインかぜと同一のものと確認されている。 進化生物学者マイケル・ウォロビー Michael Worobey が中心となった研究チームは2019年、スペインかぜの中国人労働者起源説に対する反証を示した。 ウォロビーらは、ヨーロッパに渡った中国人労働者の間でインフルエンザの症例が報告された時期は同地点の他の集団に対して遅れているなどの理由を挙げ、彼らが最初の感染源であった可能性は低いと指摘した。 近年のコンピューター解析によって、1918年型インフルエンザウイルスのが頃に発生したことが判明している。 被害状況 [ ] マスクをつけるの女性たち。 当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。 世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。 アメリカでも50万人が死亡したとされる。 これらの数値はのみならずやなどすべてのの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間でに至らしめた記録的なものである。 日本 [ ] 日本では4月、当時にて巡業していたなどの力士3人が謎の感染症で急死。 同年5月のでは高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。 その後、1918年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していること や、国内でも多くの患者が発生していることが報じられた。 第1回の大流行が10月から3月、第2回が12月から3月、第3回が12月から3月にかけてである。 当時の人口5500万人に対し約2380万人が感染したとされる。 有名人では1918年にが、1919年に、がスペインかぜにより死去している。 第1回の患者数・死亡者数が最も多い。 第2回では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。 第3回の患者数・死亡者数は比較的少数であった。 日本におけるスペインインフルエンザの被害 流行 患者 死者 1918(大正7)年8月-1919(大正8)年7月 2116万8398人 25万7363人 1. は死亡者を約45万人(肺結核、気管支炎等が死因とされていた者を含む) と推計している。 特徴 [ ] スペインかぜはH1N1型が原因とほぼ特定されているにもかかわらず、他のインフルエンザ流行とは異なる特徴がいくつか見られる。 ただし、第1次世界大戦中の流行であり、当時の記録には様々な混乱要素が含まれ得ることを考慮する必要がある。 被害者の年齢層 [ ] 若年成人が死に至りやすい傾向が見られた。 一般にインフルエンザの犠牲者は乳幼児(0—2歳)、高齢者(70歳以上)、者に集中することから、これはスペインかぜの際立った特徴と考えられる。 65歳未満の死亡率は65歳以上の6倍であった。 日本の記録でも同様の傾向が見られた。 若年成人の死亡率の高さについては、スペインかぜのウイルスが引き起こすが若年成人の強い免疫システムを破壊する ことが原因の一説として挙げられている。 妊婦の死亡率が特に高い ことも若年成人の死亡率を高くした要因と見られる。 また、実際にはスペインかぜのほとんどの犠牲者が栄養失調、過密な医療キャンプや病院、劣悪な衛生状態による細菌性のを死因としているとの指摘もあり 、第一次世界大戦による過酷な兵役、軍需産業への動員が若年成人の死亡率を引き上げた可能性もある。 高齢者の死亡率の低さについては、この時代の高齢者は頃に流行した「ロシアかぜ」で免疫を獲得していたのではないかとの説もある。 流行時期 [ ] 夏から秋にかけて大流行した。 一般のインフルエンザの流行ピークは冬季である。 病原体 [ ] 患者の遺体から見つかったゲノムより復元されたスペインかぜウイルス スペインかぜの病原体は、()である。 ただし、当時はまだウイルスの分離技術が十分には確立されておらず、またであるやに対しては病原性を示さなかったことから、その病原体の正体は不明であった。 ヒトのの病原性については、にを用いた実験で証明された。 その後、スペインかぜ流行時に採取された患者中にこの時分離されたウイルスに対するが存在することが判明したため、この頃に流行していたものと類似のインフルエンザウイルスがスペインかぜの病原体であると考えられた。 その後、8月にアメリカ合衆国のより発掘された4遺体から組織検体が採取され、ウイルスが分離されたことによって、ようやくスペインかぜの病原体の正体が明らかとなった。 これにより、H1N1亜型であったことと、ウイルスに由来するものであったことが証明された。 よってスペインかぜは、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスがし、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったものと考えられている。 つまり、当時の人々にとっては全く新しい感染症()であり、ヒトがスペインかぜに対するを持っていなかったことが、の原因になった。 スペインかぜについては、ゲノム解読された遺伝子からウイルスを復元したところ、マウスに壊死性の、出血を伴う中程度から重度の、を引き起こすことが判明した。 このような強い病原性は、ウイルス表面にあるHA(、)が原因である。 また、スペインかぜウイルスは、現在のインフルエンザウイルスよりも30倍も早く増殖する能力を持つことが分かっている(増殖を司る3つのによる)。 通常の流行では小児と老人で死者が多いが、スペインかぜでは若年成人層の死者が多かった点に関して、5月に ()はウイルスによって引き起こされるが原因 であるという仮説を提唱したが、これに反対する説もある。 一方1月に、とが、人工合成したウイルスを用いてで実験した結果では、スペインかぜウイルスには強い致死性のと反応の調節に異常を起こす病原性があることを発表している。 12月に、のなど日米の研究者グループによって、強い病原性を説明する3つの遺伝子を特定したことが発表された。 新スペイン理論 [ ] 甚大な被害をもたらしたスペインかぜはなぜ忘れ去られてしまったのだろうか。 忘れられたのは日本だけでなく、アメリカでもそうだった。 クロスビーは「憶測ではあるが」としながら次のように述べた。 第一次世界大戦に対する関心がスペイン・インフルエンザより勝っていた。 スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとはいえなかった• スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人々をなぎ倒しはしたが、あっという間に去り戻ってこなかった。 スペイン・インフルエンザは超有名な人物の命を奪わなかった。 といった理由である。 日本の場合も当てはまるが特に日本の場合は流行の時期が日本の歴史の中でも特別な意味を持つ時期と一致していた。 大正中期、海外から輸入してくる思想、「」に象徴される、都市の、日本の工業生産額の増加、電力生産力の増加。 特にの戦勝国としての理事国となり大陸進出を始めた。 も始まった。 大学令によって私立大学も大学の仲間入りをした。 識字率の上昇により大衆に文字文化を伝え雑誌、書籍の発行点数が非常な勢いで上昇した。 こういった身の回りの大きな変動がスペインかぜを軽い病気に見せたのだろうか。 やにくらべて死亡率も低く「軽く」見られていたところもある。 とにかく早く忘れたいという気持ちが底に流れていたのかもしれない。 そして流行後まもなくが来る。 人的被害より物的被害が大きかった。 これによりスペインかぜは記憶の片隅に追いやられた。 さらに昭和期に入ると、とスペインかぜよりももう一桁多い戦死者や一般市民の犠牲者を出す出来事が相次ぎ、さらに忘却してしまった。 の到来により今再び人々の話題に登場するようになった。 画像 [ ]• 西班牙流行性感冒を、当時のが西班牙 感冒 ( かぜ )と読ませたからとする出典もある。 病院の1918年のには、病名が流行性感冒と記されていた。 誤解される場合も多いが、は病名ではなくインフルエンザを含む病気の総称としての風邪症候群である。 よって、病名においてこの「かぜ」という名称を使うべきでないと主張する研究者もおり、議論されている [ ]• 2009年7月のでは、のCeder Rapids Swine Festivalを流行の起源としているが、当時豚インフルエンザ様の疾患が豚に大流行していたとの記録からの類推に過ぎない。 第一次世界大戦:戦死者900万、非戦闘員死者1000万、負傷者2200万人。 : 戦死者1500万、軍人負傷者2500万、一般市民の死者数3800万。 控えめな推定。 ただし第一次世界大戦の戦死者には戦闘活動以外による死亡者が多く占め、スペインかぜによる戦病死も含まれていることから、スペインかぜの死亡者と第一次大戦の戦死者には重複がある。 サイトカインストーム説の出所はF・マクファーレン・バーネットの免疫過剰反応説である。 スペイン風邪の第2波でRNAのPB2の627番目がに変わって強毒性となったという。 第1波のアミノ酸が何であったかは不明である。 出典 [ ]• Emerging Infectious Diseases 12 1 : 15—22. 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