アミニズム。 古代日本のアニミズムと神道、柳田国男や和辻哲郎などの思想|高校倫理

幼児期のアニミズム的表現や多視点表現について

アミニズム

【 文化人類学による宗教研究】 文化人類学では、宗教という名の下に、何を研究するのか? 人は目に見えないもの(超自然的存在、精霊)や力の存在(呪術など) を信じ、 そのような人間の知識や能力をはるかにこえたものに畏れや感動を覚える。 幽霊は存在するのか? 心霊写真には何が写っているのか? 多くの文化では、目に見えない存在や力にどのように接し、 それとどのように付き合うかについての作法が人びとの間で共有されている。 はたして霊は本当にいるのか? 文化人類学はそのような研究をする学問ではない。 ある共通した信仰・信念を持っている人々が どのようにそのような現象を信じ、生活する上で どのようにそれが重要であるのかを記述・考察しようとする。 いわゆる 精霊信仰 である。 現生人類の脳は、さまざまな存在に対する 知識を結び合わせて、「石」や「木」などの無生物にも、 人間と同じように意思や意識のようなものが あると考えるようになった。 アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で 流動的知性を獲得した結果として、 事物や事柄のうちに、人間と同じ性質を読みとって、 それらとの関係において、日常の現実を組み立てたり、 日々の問題を解決したりする手立てとして立ち現われた。 デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、 アニミズムは、動物や神、精霊やその他の無生物 といった非人間的な存在が、人間との間で、 身体性は異なるが、 内面性において類似しているという事態を意味している と言う。 つまり、人間と人間以外の存在が、異なる身体性をもつが、 類似する内面性を有することである。 どういうことか? お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じ だということ。 たしかに、 お化けは足がないし、人間は足がある。 でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、 復讐してやろうとする点で人間と同じ。 要は、タイラー流のアニミズムでは、 人間と人間以外の存在との断絶が前提 とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、 人間のもつ特質としての精神や魂が非人間の上に投影される。 人 人以外 精神、魂(内面性)を持つ存在 ふつうは精神、魂(内面性)がないが、人以外にも精神、魂(内面性)を読みとる考え方 = アニミズム それに対して、 人間と非人間は、はじめから内面性において通じている。 そうした 相互の内面性の連続性こそが、アニミズム なのである。 その意味で、非人間存在物への人間の性質の投影という、 タイラー流のアニミズム理解は、役に立たない 【アイヌのイヨマンテ】 アニミズムの一つの事例として、 アイヌのイヨマンテ(クマ送りの儀礼)を 取り上げよう。 アイヌ・モシリ ムックリ 竹製の口琴 トンコリ 伝統的な五弦琴 OKI-SAKHALIN ROCK アイヌのクマ猟 アイヌは、冬眠中のヒグマを狩る。 母グマは殺して食べるが、 子グマがいた場合、子グマは集落に連れ帰って育てる。 最初は、人の子と同じように家の中で育て、 赤ん坊と同様に母乳をやる。 大きくなると屋外の檻に移す。 ずっと、上質の食事を与えて育てる。 1年〜2年ほど育てた後、 集落をあげて盛大な送りの儀礼(イヨマンテ) を行い、子グマを屠殺し、解体してその肉をふるまう。 アイヌの解釈 イヨマンテは、熊の姿で人間の世界に やってきたカムイ(神)を丁重にもてなした後、 送りの儀礼を行って神々の世界に お帰り頂くものとして解釈されてきた。 熊を屠殺して得られた肉や毛皮は、 もてなしの礼としてカムイが 置いて行った土産であり、皆でありがたく頂く。 地上で人間にもてなされた 熊のカムイは、神の世界に戻った後も 再度肉と毛皮を土産にたずさえて、 人間の世界を訪れる。 人の世界の素晴らしさを伝え聞いた ほかのカムイたちも、クマとなって、 肉や毛皮とともに人の世界を訪れる。 それは、人間とヒグマ=神がともに 内面性においてはつうじているという意味での アニミズムである。 問い アイヌのイヨマンテとはいったい何か? アイヌは、なぜイヨマンテの儀礼をするのか? イヨマンテに関して、さらに理解を深めよう。 Neil G. Munro 1931 The Ainu Bear Ceremony. の一部を見よう。 <ビデオの4分21秒以降> それは、飼い育てたクマを残酷な方法で殺害し、 肉をみなで食べるという内容の儀礼であるが、 なぜアイヌの人びとが、そうしたことを しなければならないのか? そのような儀礼を行うことによって、何をしようとしているのか、 何を表現しようとしているのかを考えてみてほしい。 一つの回答 アイヌのイヨマンテは、人々の前に、 まさにこの「原光景」をまざまざとしめそうとするのです。 そのとき、アイヌの人々は、 熊の姿をして人間の世界に現われた神を見て、 その神をもう一度神の世界に送り返そうとします。 人間の世界は人間だけでつくられているものではなく、 人間を越えたもの、人間の外にあるものによって ささえられていることを、この儀礼ははっきりと表現しようとします。 それと同時に、 人間は動物を食べ、ほかの自然物を食べる ことによって、生きることができるのだ、 という条件をむき出しにして、しめそうとしています。 そして、 その食べ物がどこからもたらされ、またそれをもたらしてくれるものにたいして、 人間はどのような態度をとらなければならないのか、 ということについて、イヨマンテの儀礼は 明確な表現を行おうとしているのです。 つまり、この儀礼は宇宙の中でこの人間がどのような存在なのか、 ということを表現しようとする哲学であると同時に、 そういう存在がどのような生き方をしなければならないのか、 ということについての基準をしめそうとする倫理学でもあるのです。 中沢新一「映像のエティック」 せりか書房、1991年、292-3頁。 OBR大生によるイヨマンテ理解 2010年にも、文化人類学の授業でこれを取り上げて、 受講者に<小テスト>を行った (「何が分かったのかについて簡潔に書きなさい)」。 A.う〜ん! 【A-1】 イヨマンテの儀礼をする時には、本当に多くの人たちが協力し合っているということが分かりました。 大人から子供が全員の力を合わせてイヨマンテの儀礼をしていました。 熊に対する攻撃をする時でも集団で攻撃をしていました。 イヨマンテは、動物に関して独特の考えを持っていて、 文明の違い が分かりました。 そうした奇妙なやり方を、たんに「文明の違い」に還元してしまっているのではないでしょうか。 【A-2】 今の私にとっておかしい所もたくさんあるが、それは 文化の違い であり、人間の開き直りではないと信じるしかないと思った。 そこで考察が止まってしまうからです。 【A-3】 ただ自分の意見としては動物を殺す、物を壊すといった行為を神と神の世界に返すなどの理由をつけてやっているにすぎないのだと思いました。 人間は神という理由があれば平気で残酷な事をする人だなと思ったのが正直な感想です。 【A-4】 どうしても感情論的に見ると、人間の子供以上に大切に育てた熊を殺して食べるなんて、残酷だと思ってしまいました。 これはあくまで儀礼なので、アイヌの人々は心を痛めたりしないのでしょうか?儀礼に参加していた人々がみんなが、熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的でした・・・。 「熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的だった」ということの意味を考えてみてほしいのです。 なぜ、そうした華やいだ雰囲気のなかで、飼い育てた熊を殺すのでしょうか?残酷かもしれないけど、あえてその残酷さを目にすることによって彼らは何をしているのでしょうか。 そうした儀礼でしか表現することができない、人間の実存のあり方が、そこでは表現されているのではないでしょうか。 【A-5】 アイヌにしてみれば、自分たちがより良く生きるために必要な儀式なのだろう。 しかしボクは『逆の立場だったら』と考えてしまってしかたがない。 人間が、もし他の星へ行って人間を食す高度な生命体につかまり同じことをされたら・・・どうしてもそんな考えばかり頭にうかぶ。 あの映像を見て、それしか考えられなくなってしまった。 B.そうだ! 【B-1】 例えば、身近な所で言えば日本人は魚などを食べる時骨をしゃぶるくらいキレイに食べる。 このことについて私は父に『日本人は食べ物(動物)にも神がいて、自分達が生きていく上で殺して食べなくてはいけない。 だからこそ敬意を表していただくんだ』と聞いた。 【B-2】 現在の私たちは動物を殺すこと=残酷として背を向けている。 しかし何物も自然からの贈り物であり、それらのおかげで私たちは生きている。 イヨマンテは、『自然に感謝する』という当たり前な、しかし現代の私たちには忘れがちなことを思い起こさせてくれるものだった。 また、アイヌの人々はイヨマンテを行うことで(自分たちと関わる全てのものに)神として送り出していたことから、それが礼儀(エチケット)だと考えていたことが分かった。 そのことをイヨマンテが思い起こさせてくれるのですね。 【B-3】 イヨマンテの儀礼というのは、何も知らない人から見れば、ただのむごいだけの儀礼かもしれません。 しかしその行為の一つ一つにはとても深い意味があるということを知りました。 熊を神の化身として丁重にあつかい、その後神々の世界に返すために盛大な儀礼を行い、その熊を殺す。 この儀礼の中で、わたしはアイヌ民族の日々生きていけること、食事をできることへの自然に対する深い感謝の念を感じました。 現代に生きる私たちは、食事ができることが当たり前で、生命を殺し作った食べ物を平然と捨てる。 私たちとアイヌ民族、本当に野蛮なのはどちらか?深く考えさせられる儀礼でした。 【B-4】 この儀式は、自分達にめぐみを与えてくれる自然神に対して、アイヌの民族の人達の礼儀、思想の一部なのだという事がわかった。 一見残酷に見えるこの儀礼の中には、自分達のために利益を与えてくれる物達へのアイヌの人達の思いやり、感謝を表す一つの方法なのだということが理解できた。 なぜ?子熊を自分の子以上に可愛がって育てるのに、最終的に殺してしまうのかという事に対しては、その熊の器を借りてやってきた神に対して、心づくしのおもてなしをして、あちら側の世界(神々が本来あるべき場所)に気持ちよく帰ってもらうための行動なのだと言う事なのだと思った。 アイヌの儀式を通して、命を捧げてくれる物達へ、人間は本来どのようにあるべきなのかを教えてくれた。 【B-6】 イヨマンテは、人間として自然・動物たちと向き合うことの真実を伝えている。 人間はいろいろなものに支えられていて、キレイ言ではなく、そこと人間はどうつながっているのか。 今の人間が忘れてしまった、また避けていることをつきつけてくれる。 (LA3) 【B-7】 神を送り返す、また来てもらい肉や毛皮を持ってきてもらうという熊送りのイヨマンテ。 神を人間に豊かさを与えてくれるという、ある意味都合のいい解釈に感じたが、そこには熊をはじめ全ての自然に人間は生かされているという自然崇拝の形を見た。 小熊を育てるという点は、より大きくして肉を得るという利己的な面があるように思えたが、それよりも神をもてなす、感謝する、そして家族の一員として人間も神(自然)も同列にあり、だからこそ礼を尽くすことで対価としての豊かさを得ようという考えもあるように思った。 このようなアイヌの自然観、あるいは世界観をイヨマンテから理解することができると私は考えた。 わたしたちの当たり前(常識)を持ちこんで、異文化(他者)を 理解しようとしてはいけないのではないか。 あらゆる行動は、文化的なものであり、行動の違いを、 わたしたちとの文化・文明の違いに還元してはならないのではないか。 異文化(他者)の見方・考え方に寄り添って、内在的な観点から理解を試みるならば、 彼らのやり方がわたしたちの前に開かれてくるはずである。 池澤夏樹 『静かな大地』 朝日文庫 池澤夏樹のルーツともいうべき、 彼の祖先たちの北海道開拓の物語、 いや、読みようによっては、 和人とアイヌの交わりをめぐる 分厚いエスノグラフィー。 徳島との政争に敗れた淡路の武士たちは 明治維新以後、蝦夷地の静内に開拓民として入植、 宗形三郎と志郎の兄弟は現地のアイヌの人たちと 仲良くなり、アイヌ語を学んだ後に、 兄三郎は札幌の官園でアメリカ式の牧畜を学び、 静内でアイヌの仲間たちとともに馬の飼育を開始する。 そこで育てられた馬は軍馬として高い評価を得、 中央財界の重要人物の目に留まって 経営拡大を求められるが、三郎はその誘いを 和人のためのものであると見抜いて断る。 彼は、和人を裏切りアイヌの側に立つことを志して, 牧場経営を始めたのだった。 やがて彼は和人たちから睨まれるようになり、 さらには、妻の産褥死という不幸な出来事を経て、 自ら命を絶つ。 三郎を失った牧場はやがて没落する。 三郎は、なにゆえに、そこまでアイヌに 対して思いを寄せたのか。 作中で、三郎は、『日本奥地紀行』の作者、 イザベラ・バードに会って、 アイヌは気高き人びとであるという言葉に我が意を得る。 『静かなる大地』は、和人である三郎による アイヌという他者の理解の物語であり、 全体をつうじて、クマ送りをすることに対する 真の理解などを含めて、 自然のなかに生きるアイヌの人びとへの 共鳴が聞こえてくる。 訪れたことがある日高に吹く涼しい風を思い出した。 池澤夏樹 『熊になった少年』 スイッチ・パブリッシング アイヌのクマ送りが題材となっている。 トゥムンチという、 アイヌに抗する民族に生まれたイキリ少年は、 トゥムンチが、自分たちが強いと思っているために クマが獲れると思っている思い上がりに つねづね心を痛めていたが、 あるとき、猟に出かけて、クマの世界へとまぎれこむ。 そこで、アイヌが捕獲した子グマに対してするように、 クマたちがイキリを慈しみ育てて、ついには、 成長したクマとして、 イキリをクマのまま人間の世界に送り返すのである。 その後、クマであるイキリは、 トゥムンチである自分の父の矢に撃たれるのであるが、 そこで、ふたたび人間のイキリへと戻る。 イキリは母グマたちと暮らした日々を トゥムンチたちに語り、 クマ送りをするように頼んだが受け入れられず、 虚しさを抱えて、高い崖から谷底に身を投げ、 魂を正しい国へと送り込むのである。 私たちに糧を与えてくれる動物に対して、 自分たちの力のみを頼り、 感謝の念を忘れたトゥムンチの奢り に対する静かながら強い抵抗の念が、 本書全体をつうじて感じられる。 トゥムンチとは、実は、自らの力だけを過信し、 他者としての動物の痛みに思い至ることがない、 現代日本人のことなのではないかとも思えてくる。 映画<いのちの食べ方> 私たちが日々食べているものは、 どのように生産されているのだろうか? 畜産工場において、どのように食肉が 大量生産されているのかについて、 私たちは全く知らないということに気づく。

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幼児期のアニミズム的表現や多視点表現について

アミニズム

人間の霊魂と同じようなものが広く自然界にも存在するという考え。 自然界にも精神的価値を認めこれを崇拝する宗教の原型のひとつで、世界各地でみられた。 今日でも、各地域の先住民の間で現存し、また、さまざまな宗教や民俗、風習にもその名残がある。 日本でも古来、森羅万象に精霊が宿っていると信じられ、唯一絶対の神が存在し、人間を裁くのではなく、あらゆるところ(山、海、川、動物、植物から家、厠にいたるまで)に精霊=神が宿って人々を守っていると考えてられていた。 アニミズム思想は、日本のように気候風土が比較的穏やかな地域でみられるという指摘がある。 これは、自然を克服すべき敵対者としてみなす必要がなく、自然に対する畏敬の念が生じるからと考えられている。 一方で、近代人は、アニミズム思想を受け入れず、自然を人間のための道具とみなし、自然界の精神的価値を認めない傾向が強いが、今日の 自然保護思想のうえで、アニミズム的な感覚や発想を再評価する動きも起きている。 この解説に含まれる環境用語• この環境用語のカテゴリー• アニミズムとシャーマニズム:.

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【 文化人類学による宗教研究】 文化人類学では、宗教という名の下に、何を研究するのか? 人は目に見えないもの(超自然的存在、精霊)や力の存在(呪術など) を信じ、 そのような人間の知識や能力をはるかにこえたものに畏れや感動を覚える。 幽霊は存在するのか? 心霊写真には何が写っているのか? 多くの文化では、目に見えない存在や力にどのように接し、 それとどのように付き合うかについての作法が人びとの間で共有されている。 はたして霊は本当にいるのか? 文化人類学はそのような研究をする学問ではない。 ある共通した信仰・信念を持っている人々が どのようにそのような現象を信じ、生活する上で どのようにそれが重要であるのかを記述・考察しようとする。 いわゆる 精霊信仰 である。 現生人類の脳は、さまざまな存在に対する 知識を結び合わせて、「石」や「木」などの無生物にも、 人間と同じように意思や意識のようなものが あると考えるようになった。 アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で 流動的知性を獲得した結果として、 事物や事柄のうちに、人間と同じ性質を読みとって、 それらとの関係において、日常の現実を組み立てたり、 日々の問題を解決したりする手立てとして立ち現われた。 デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、 アニミズムは、動物や神、精霊やその他の無生物 といった非人間的な存在が、人間との間で、 身体性は異なるが、 内面性において類似しているという事態を意味している と言う。 つまり、人間と人間以外の存在が、異なる身体性をもつが、 類似する内面性を有することである。 どういうことか? お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じ だということ。 たしかに、 お化けは足がないし、人間は足がある。 でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、 復讐してやろうとする点で人間と同じ。 要は、タイラー流のアニミズムでは、 人間と人間以外の存在との断絶が前提 とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、 人間のもつ特質としての精神や魂が非人間の上に投影される。 人 人以外 精神、魂(内面性)を持つ存在 ふつうは精神、魂(内面性)がないが、人以外にも精神、魂(内面性)を読みとる考え方 = アニミズム それに対して、 人間と非人間は、はじめから内面性において通じている。 そうした 相互の内面性の連続性こそが、アニミズム なのである。 その意味で、非人間存在物への人間の性質の投影という、 タイラー流のアニミズム理解は、役に立たない 【アイヌのイヨマンテ】 アニミズムの一つの事例として、 アイヌのイヨマンテ(クマ送りの儀礼)を 取り上げよう。 アイヌ・モシリ ムックリ 竹製の口琴 トンコリ 伝統的な五弦琴 OKI-SAKHALIN ROCK アイヌのクマ猟 アイヌは、冬眠中のヒグマを狩る。 母グマは殺して食べるが、 子グマがいた場合、子グマは集落に連れ帰って育てる。 最初は、人の子と同じように家の中で育て、 赤ん坊と同様に母乳をやる。 大きくなると屋外の檻に移す。 ずっと、上質の食事を与えて育てる。 1年〜2年ほど育てた後、 集落をあげて盛大な送りの儀礼(イヨマンテ) を行い、子グマを屠殺し、解体してその肉をふるまう。 アイヌの解釈 イヨマンテは、熊の姿で人間の世界に やってきたカムイ(神)を丁重にもてなした後、 送りの儀礼を行って神々の世界に お帰り頂くものとして解釈されてきた。 熊を屠殺して得られた肉や毛皮は、 もてなしの礼としてカムイが 置いて行った土産であり、皆でありがたく頂く。 地上で人間にもてなされた 熊のカムイは、神の世界に戻った後も 再度肉と毛皮を土産にたずさえて、 人間の世界を訪れる。 人の世界の素晴らしさを伝え聞いた ほかのカムイたちも、クマとなって、 肉や毛皮とともに人の世界を訪れる。 それは、人間とヒグマ=神がともに 内面性においてはつうじているという意味での アニミズムである。 問い アイヌのイヨマンテとはいったい何か? アイヌは、なぜイヨマンテの儀礼をするのか? イヨマンテに関して、さらに理解を深めよう。 Neil G. Munro 1931 The Ainu Bear Ceremony. の一部を見よう。 <ビデオの4分21秒以降> それは、飼い育てたクマを残酷な方法で殺害し、 肉をみなで食べるという内容の儀礼であるが、 なぜアイヌの人びとが、そうしたことを しなければならないのか? そのような儀礼を行うことによって、何をしようとしているのか、 何を表現しようとしているのかを考えてみてほしい。 一つの回答 アイヌのイヨマンテは、人々の前に、 まさにこの「原光景」をまざまざとしめそうとするのです。 そのとき、アイヌの人々は、 熊の姿をして人間の世界に現われた神を見て、 その神をもう一度神の世界に送り返そうとします。 人間の世界は人間だけでつくられているものではなく、 人間を越えたもの、人間の外にあるものによって ささえられていることを、この儀礼ははっきりと表現しようとします。 それと同時に、 人間は動物を食べ、ほかの自然物を食べる ことによって、生きることができるのだ、 という条件をむき出しにして、しめそうとしています。 そして、 その食べ物がどこからもたらされ、またそれをもたらしてくれるものにたいして、 人間はどのような態度をとらなければならないのか、 ということについて、イヨマンテの儀礼は 明確な表現を行おうとしているのです。 つまり、この儀礼は宇宙の中でこの人間がどのような存在なのか、 ということを表現しようとする哲学であると同時に、 そういう存在がどのような生き方をしなければならないのか、 ということについての基準をしめそうとする倫理学でもあるのです。 中沢新一「映像のエティック」 せりか書房、1991年、292-3頁。 OBR大生によるイヨマンテ理解 2010年にも、文化人類学の授業でこれを取り上げて、 受講者に<小テスト>を行った (「何が分かったのかについて簡潔に書きなさい)」。 A.う〜ん! 【A-1】 イヨマンテの儀礼をする時には、本当に多くの人たちが協力し合っているということが分かりました。 大人から子供が全員の力を合わせてイヨマンテの儀礼をしていました。 熊に対する攻撃をする時でも集団で攻撃をしていました。 イヨマンテは、動物に関して独特の考えを持っていて、 文明の違い が分かりました。 そうした奇妙なやり方を、たんに「文明の違い」に還元してしまっているのではないでしょうか。 【A-2】 今の私にとっておかしい所もたくさんあるが、それは 文化の違い であり、人間の開き直りではないと信じるしかないと思った。 そこで考察が止まってしまうからです。 【A-3】 ただ自分の意見としては動物を殺す、物を壊すといった行為を神と神の世界に返すなどの理由をつけてやっているにすぎないのだと思いました。 人間は神という理由があれば平気で残酷な事をする人だなと思ったのが正直な感想です。 【A-4】 どうしても感情論的に見ると、人間の子供以上に大切に育てた熊を殺して食べるなんて、残酷だと思ってしまいました。 これはあくまで儀礼なので、アイヌの人々は心を痛めたりしないのでしょうか?儀礼に参加していた人々がみんなが、熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的でした・・・。 「熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的だった」ということの意味を考えてみてほしいのです。 なぜ、そうした華やいだ雰囲気のなかで、飼い育てた熊を殺すのでしょうか?残酷かもしれないけど、あえてその残酷さを目にすることによって彼らは何をしているのでしょうか。 そうした儀礼でしか表現することができない、人間の実存のあり方が、そこでは表現されているのではないでしょうか。 【A-5】 アイヌにしてみれば、自分たちがより良く生きるために必要な儀式なのだろう。 しかしボクは『逆の立場だったら』と考えてしまってしかたがない。 人間が、もし他の星へ行って人間を食す高度な生命体につかまり同じことをされたら・・・どうしてもそんな考えばかり頭にうかぶ。 あの映像を見て、それしか考えられなくなってしまった。 B.そうだ! 【B-1】 例えば、身近な所で言えば日本人は魚などを食べる時骨をしゃぶるくらいキレイに食べる。 このことについて私は父に『日本人は食べ物(動物)にも神がいて、自分達が生きていく上で殺して食べなくてはいけない。 だからこそ敬意を表していただくんだ』と聞いた。 【B-2】 現在の私たちは動物を殺すこと=残酷として背を向けている。 しかし何物も自然からの贈り物であり、それらのおかげで私たちは生きている。 イヨマンテは、『自然に感謝する』という当たり前な、しかし現代の私たちには忘れがちなことを思い起こさせてくれるものだった。 また、アイヌの人々はイヨマンテを行うことで(自分たちと関わる全てのものに)神として送り出していたことから、それが礼儀(エチケット)だと考えていたことが分かった。 そのことをイヨマンテが思い起こさせてくれるのですね。 【B-3】 イヨマンテの儀礼というのは、何も知らない人から見れば、ただのむごいだけの儀礼かもしれません。 しかしその行為の一つ一つにはとても深い意味があるということを知りました。 熊を神の化身として丁重にあつかい、その後神々の世界に返すために盛大な儀礼を行い、その熊を殺す。 この儀礼の中で、わたしはアイヌ民族の日々生きていけること、食事をできることへの自然に対する深い感謝の念を感じました。 現代に生きる私たちは、食事ができることが当たり前で、生命を殺し作った食べ物を平然と捨てる。 私たちとアイヌ民族、本当に野蛮なのはどちらか?深く考えさせられる儀礼でした。 【B-4】 この儀式は、自分達にめぐみを与えてくれる自然神に対して、アイヌの民族の人達の礼儀、思想の一部なのだという事がわかった。 一見残酷に見えるこの儀礼の中には、自分達のために利益を与えてくれる物達へのアイヌの人達の思いやり、感謝を表す一つの方法なのだということが理解できた。 なぜ?子熊を自分の子以上に可愛がって育てるのに、最終的に殺してしまうのかという事に対しては、その熊の器を借りてやってきた神に対して、心づくしのおもてなしをして、あちら側の世界(神々が本来あるべき場所)に気持ちよく帰ってもらうための行動なのだと言う事なのだと思った。 アイヌの儀式を通して、命を捧げてくれる物達へ、人間は本来どのようにあるべきなのかを教えてくれた。 【B-6】 イヨマンテは、人間として自然・動物たちと向き合うことの真実を伝えている。 人間はいろいろなものに支えられていて、キレイ言ではなく、そこと人間はどうつながっているのか。 今の人間が忘れてしまった、また避けていることをつきつけてくれる。 (LA3) 【B-7】 神を送り返す、また来てもらい肉や毛皮を持ってきてもらうという熊送りのイヨマンテ。 神を人間に豊かさを与えてくれるという、ある意味都合のいい解釈に感じたが、そこには熊をはじめ全ての自然に人間は生かされているという自然崇拝の形を見た。 小熊を育てるという点は、より大きくして肉を得るという利己的な面があるように思えたが、それよりも神をもてなす、感謝する、そして家族の一員として人間も神(自然)も同列にあり、だからこそ礼を尽くすことで対価としての豊かさを得ようという考えもあるように思った。 このようなアイヌの自然観、あるいは世界観をイヨマンテから理解することができると私は考えた。 わたしたちの当たり前(常識)を持ちこんで、異文化(他者)を 理解しようとしてはいけないのではないか。 あらゆる行動は、文化的なものであり、行動の違いを、 わたしたちとの文化・文明の違いに還元してはならないのではないか。 異文化(他者)の見方・考え方に寄り添って、内在的な観点から理解を試みるならば、 彼らのやり方がわたしたちの前に開かれてくるはずである。 池澤夏樹 『静かな大地』 朝日文庫 池澤夏樹のルーツともいうべき、 彼の祖先たちの北海道開拓の物語、 いや、読みようによっては、 和人とアイヌの交わりをめぐる 分厚いエスノグラフィー。 徳島との政争に敗れた淡路の武士たちは 明治維新以後、蝦夷地の静内に開拓民として入植、 宗形三郎と志郎の兄弟は現地のアイヌの人たちと 仲良くなり、アイヌ語を学んだ後に、 兄三郎は札幌の官園でアメリカ式の牧畜を学び、 静内でアイヌの仲間たちとともに馬の飼育を開始する。 そこで育てられた馬は軍馬として高い評価を得、 中央財界の重要人物の目に留まって 経営拡大を求められるが、三郎はその誘いを 和人のためのものであると見抜いて断る。 彼は、和人を裏切りアイヌの側に立つことを志して, 牧場経営を始めたのだった。 やがて彼は和人たちから睨まれるようになり、 さらには、妻の産褥死という不幸な出来事を経て、 自ら命を絶つ。 三郎を失った牧場はやがて没落する。 三郎は、なにゆえに、そこまでアイヌに 対して思いを寄せたのか。 作中で、三郎は、『日本奥地紀行』の作者、 イザベラ・バードに会って、 アイヌは気高き人びとであるという言葉に我が意を得る。 『静かなる大地』は、和人である三郎による アイヌという他者の理解の物語であり、 全体をつうじて、クマ送りをすることに対する 真の理解などを含めて、 自然のなかに生きるアイヌの人びとへの 共鳴が聞こえてくる。 訪れたことがある日高に吹く涼しい風を思い出した。 池澤夏樹 『熊になった少年』 スイッチ・パブリッシング アイヌのクマ送りが題材となっている。 トゥムンチという、 アイヌに抗する民族に生まれたイキリ少年は、 トゥムンチが、自分たちが強いと思っているために クマが獲れると思っている思い上がりに つねづね心を痛めていたが、 あるとき、猟に出かけて、クマの世界へとまぎれこむ。 そこで、アイヌが捕獲した子グマに対してするように、 クマたちがイキリを慈しみ育てて、ついには、 成長したクマとして、 イキリをクマのまま人間の世界に送り返すのである。 その後、クマであるイキリは、 トゥムンチである自分の父の矢に撃たれるのであるが、 そこで、ふたたび人間のイキリへと戻る。 イキリは母グマたちと暮らした日々を トゥムンチたちに語り、 クマ送りをするように頼んだが受け入れられず、 虚しさを抱えて、高い崖から谷底に身を投げ、 魂を正しい国へと送り込むのである。 私たちに糧を与えてくれる動物に対して、 自分たちの力のみを頼り、 感謝の念を忘れたトゥムンチの奢り に対する静かながら強い抵抗の念が、 本書全体をつうじて感じられる。 トゥムンチとは、実は、自らの力だけを過信し、 他者としての動物の痛みに思い至ることがない、 現代日本人のことなのではないかとも思えてくる。 映画<いのちの食べ方> 私たちが日々食べているものは、 どのように生産されているのだろうか? 畜産工場において、どのように食肉が 大量生産されているのかについて、 私たちは全く知らないということに気づく。

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