こ がら や。 ガラ

ガラ

こ がら や

お盆時期には、ホームセンターやお花屋さん、スーパーなどで販売されています。 これは大麻のオガラです。 大麻は古来より清浄な植物とされ、悪いものを祓い清めるとともに、燃やすことで清浄な空間を作り出すという意味が込められています。 C.お祭りの松明(たいまつ) お祭りの松明として全国各地で使われてきました。 例えば、岐阜県神戸(ごうど)地方のお祭り。 無数の松明(オガラ)の明かりに照らされて、神社から担がれた「神輿」が「お旅所」に奉安される「火まつり」だそう。 オガラがなければ、お祭りが成立しません。 オガラと石灰でつくる「ヘンプクリート」 この建築方式のメリットは、 1.とにかく軽い。 2.多量のCo2を固定化可能。 そして、何より特筆すべきなのが 3.天然の調湿・温度調整効果。 ヘンプクリートの無数の穴(多孔質性)が、室内を快適な環境に自然調整。 記事では、天然のエアコンとして温度調整機能が発揮されているようです。 馬などの家畜の敷料 このオガラのチップは、馬(特に、競走馬)の敷料としても用いられています。 英国王室ご用達とのことです。 藁(わら)と比べて、適度なクッション性、吸水性・消臭性があり、ホコリが少なく、防虫性にも優れています。 たとえば「消臭性」と「調質性」。 オガラの消臭性 オガラは実は消臭力があります。 たとえば、アンモニア臭。 キレイに消し去ってしまいます。 たとえば、紹介したヘンプペレットの消臭力。 ある密閉された空間にアンモニアを投入して、どれだけ減少したか?の試験データです。 100PPMのアンモニア臭はかなりやばいですよ・・・ アンモニアって、5段階臭気強度表示法でいくと、 臭気強度1:0.1ppm 臭気強度2:0.6ppm 臭気強度3:2.0ppm 臭気強度4:10ppm 臭気強度5:40ppm ですから・・一瞬で意識失いそうです。 これをたった1gですよ、、1g。 オガラの調質性 オガラも非常に多孔質な素材。 無数の微細な穴が空いていることにより高い調質性が実現されます。 つまり、余分な湿気は取り込みつつ、乾燥状態になると取り込んだ水分を放出する作用がある、といえます。 先ほどの「」は、そのメリットを活かしたかたち。 通常180cmくらいありますが、輸送、梱包箱の関係で約125cmが限界と判断しました。 1kgで大体40~50本あります。 (同梱不可。 単品でご注文ください)。

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“ヴィレヴァン”がまさかの映画化! 岡山天音&森川葵&最上もがらドラマ版キャスト続投、10月公開 : 映画ニュース

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「」も参照 1943年6月30日にアメリカ軍はに上陸し 、7月5日にはへ上陸した。 日本軍は航空攻撃と水雷戦隊(主力)で反撃を敢行した。 この状況で7月4日と7月5日に日本軍によるコロンバンガラ島への増援部隊の輸送が行われ、7月4日の輸送は少将率いる第36. 1任務群と遭遇したため果たせず、7月5日の輸送では途中で再度第36. 1任務群と遭遇してが発生し、任務は果たしたものの物件全量の揚陸はならなかった。 後任司令官(増援部隊指揮官兼任)として7月7日付で大佐(当時、戦艦艦長)が発令されて7月10日に着任するが 、伊集院大佐の到着までの間、重巡洋艦艦長大佐が臨時の増援部隊指揮官となった。 さらに、大将は(司令官少将)と、その旗艦と駆逐艦、および2隻(、)から成る第七戦隊(司令官少将)を方面に進出させて南東方面部隊に編入させ、それぞれに出撃準備を命じた。 方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、連合国軍の横腹を突くためはニュージョージア島へ一部の兵力を移すこととなった。 その兵力としてコロンバンガラ島に駐屯していた第十三連隊を転用する事とし 、転用に伴う後詰め兵力の輸送は7月9日夜に実施される事となった。 同時に水上戦闘が生起することを想定して、ラバウル方面に所在の巡洋艦(重巡鳥海と軽巡川内)も引き連れる事とした。 1943年7月9日の輸送作戦参加艦艇 [ ]• 主隊:重巡洋艦鳥海(外南洋部隊指揮官座乗)、軽巡洋艦• 警戒隊:駆逐艦、、、• 輸送隊:駆逐艦、、、 輸送隊は陸兵1,200名、物件85トンを搭載 作戦経過とその後 [ ] 7月9日17時、主隊と警戒隊、輸送隊はを出撃し、北方で輸送隊はビラに向かう。 なんら妨害を受けることなく輸送任務は成功した。 主隊と警戒隊はニュージョージア島のアメリカ軍に対してを行った後、敵艦隊を捜索するが会敵せず、7月10日に三隊ともブインに帰投した。 輸送作戦の効果は「味方の航空支援などもあって効果てきめんであり、明るい材料が多い」と判断された。 しかし、第十三連隊をニュージョージア島に移したという事は、その分コロンバンガラ島の兵力が減少したという事につながる。 (中将)は更なる後詰め兵力として歩兵第四十五連隊中から第二大隊と砲兵一個中隊合計1,200名と物件約100トン を送り込む事とし、その輸送作戦の指揮はラバウルに進出したばかりの伊崎少将に委ねられる事となった。 一方、クラ湾夜戦で軽巡洋艦 USS Helena, CL-50 を失った第36. 1任務群は、その代役として輸送船団の護衛任務についていたの軽巡洋艦 HMNZS Leander を引き抜いて巡洋艦群の二番艦とした。 また、駆逐艦も倍以上に増加させ、前衛と後衛の兵力を増強した。 参加艦艇 [ ] 日本海軍 [ ]• 輸送隊 駆逐艦:皐月、、夕凪、松風 輸送隊は陸兵1,100名、物資約100トンを搭載 連合国軍 [ ]• 第36. 1任務群 前衛:駆逐艦、、、、 主隊:軽巡洋艦(任務群旗艦)、リアンダー、 後衛:駆逐艦、、、、 戦闘経過 [ ] 7月12日3時30分、二水戦部隊はラバウルを出撃して北方を経由し、に接近する。 輸送隊は18時40分にブインを出撃した。 これら日本艦隊の動きはによって察知されており、リレー形式で連合国軍に通報された。 これを受け、南太平洋部隊( )司令官大将は第36. 1任務群に「」の阻止を命じる。 22時35分、第36. 1任務群は先行する索敵機から日本警戒隊発見の報を受信。 針路270度に変更し、速力28ノットで日本艦隊を攻撃に向かう。 エインズワース少将は当夜の戦法について、前回のクラ湾夜戦では「軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させる」という戦法を採用していたが 、今回は駆逐艦の突撃と軽巡洋艦のレーダー射撃を入れ替え、前衛の駆逐艦による雷撃の後に軽巡洋艦がレーダー射撃を行い、一斉回頭を行ってから後衛の駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した。 他にも夜間偵察機を引きつれており、着弾観測を兼ねさせていた。 第36. 1任務群のネックは「リアンダー」の最大速力が28ノットしか出なかった事であり、エインズワース少将は部隊の統一速力を28ノットに定めた。 二水戦部隊の陣形は単縦陣で、三日月を先頭に立てて神通、雪風、浜風、清波、夕暮だった。 雪風に装備されたばかりのに最初に敵のレーダー波の反応があったのは22時30分頃だった。 レーダー波が発せられた方向はスコールが発生していたため暗幕を降ろしたように暗く、見張り員の双眼鏡に敵の艦影は映らない。 初の実戦となる逆探が確実に作動しているか疑問を残しながらも、電探室から刻々と報告される感度に従い艦隊を進ませた。 22時44分、の水上偵察機が4隻の敵艦が針路290度、速力20ノットで進んでいるのを発見し、神通に通報する が、当時、偵察機からの通信は受信側への伝播時間と暗号解読により10分前後の差が生じるため、神通がこの通報を受信したのは22時57分で、既に米艦隊は増速し日本艦隊をレーダーで捕捉する寸前まで接近していた。 同22時57分、雪風の逆探は前方に第36. 1任務群からレーダー波が発せられているのを探知していた。 日本艦隊は30ノットに増速、針路120度とし砲雷撃戦の用意をすると 、23時00分には輸送隊を南西へ分離し、身軽な警戒隊6隻で単縦陣を組んだ。 一方の米艦隊は22時59分にホノルルのレーダーが日本艦隊を探知し、エインズワース少将は前衛駆逐隊に魚雷攻撃、後衛駆逐隊に前方進出を命じた。 両艦隊は反航する形となり、相対速度60ノットで急接近した。 23時3分、日米艦隊は距離24kmでほぼ同時に敵の艦影を目視で確認。 第36. 1任務群はニコラスが二水戦部隊を発見し 、日本艦隊は敵前衛駆逐艦、次いで本隊の巡洋艦隊を発見。 神通は砲雷撃戦を下令する。 第一合戦 [ ] 23時8分、日本側は敵艦隊を発見し神通は探照灯を照射。 23時13分に魚雷戦、砲戦を開始した。 一方アメリカ側も駆逐艦およびリアンダーが雷撃を行い 、軽巡洋艦3隻はレーダー射撃で神通に砲撃を集中した。 雪風の水雷科下士官によれば「(日本の)水雷戦隊は水柱で出来たサボテンの林の中を突進しているような状態で、探照灯をつけて集中砲撃を受ける神通が観測窓から見えた」という。 神通では艦橋への被弾で第二水雷戦隊司令部が全滅し、艦長も戦死。 さらに艦尾への被弾で舵が破壊され列外に飛び出る形となった。 二度目の雷撃(7本発射)後缶室に連続して被弾し、神通は航行不能となった。 神通への砲撃集中は、他の駆逐艦への砲弾の洗礼がほぼなかったことを意味する。 当時、雪風の水雷長だった斎藤一好元大尉は著書で「雪風の後甲板に巡洋艦群からの不発主砲弾が命中した」と証言しているが 、雪風の菅間艦長によれば命中弾はなく、後甲板に敵弾の破片が散っていたとある。 斎藤元大尉も雪風乗員らが纏めた手記では「弾着は後方に逸れて無事」、「砲弾の破片が後甲板に残っていた」と同じ証言をしている。 海上に投げ出された神通の生存者たちは、続いてアメリカ艦隊の砲撃が雪風に集中し、砲弾が雪風の艦尾すれすれに幾つも落下するのを目撃したが、「雪風には幸運の女神が鎮座ましましていると、艦隊の誰もが信じていたから」と安心して見ていたと言う。 浜風、清波、夕暮は距離6,000メートルで、雪風は距離4,800メートルで右魚雷戦、魚雷を発射する。 魚雷31本を発射(雪風は故障で7本)後 、二水戦部隊は北方および西方に針路をとって魚雷の次発装填に取り掛かる。 しかし旧式駆逐艦の三日月のみはそのまま戦場から離脱していった。 発射から約8分後の23時22分、リアンダーの右舷に魚雷1本が命中する。 閃光防止火薬の黒煙に包まれて立ち往生した刹那、もう1本の魚雷が左舷側ボイラー室に命中するも、これは不発であった。 それでもリアンダーは浸水のため戦闘不能となり、前衛の駆逐艦から護衛役に回されたラドフォードとジェンキンスに付き添われてに下がっていった。 リアンダーはツラギ島、、で修理を受けたが 、二度と戦場に戻る事はなかった。 第36. 1任務群は駆逐艦ニコラス、オバノン、テイラーを二水戦の駆逐艦の追撃に向かわせた。 この時、ニコラス艦橋で指揮を執る前衛駆逐隊司令官のフランシス・X・マキナニー大佐は「敵と間違えて物騒なプレゼントを贈らんで下さいよ」と同士討ちを茶化した冗談を言い、これに対し後衛駆逐隊司令官の大佐、或いはエインズワース少将が「心配するな。 早く bastard(クソ野郎)どもを叩きのめしてこい。 武運を祈る」と答えるほど景気が良かったが 、二水戦部隊は、この夜、付近の海域に発生していたスコールを利用して敵の追跡を振り切った。 前衛のアメリカ駆逐艦の何隻かは炎上する神通に対して魚雷を発射。 神通の二番煙突右舷後方に魚雷が命中。 さらに23時48分にも魚雷が命中し、神通は大爆発を起こし二つに折れて沈没、乗員のほとんどが死亡した。 神通は後に戦史研究家から「神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である」と賞賛された。 第36. 1任務群の巡洋艦群は神通撃沈のために、ホノルルが1,110発、リアンダーが160発、セントルイスが1,360発の6インチ砲弾を消費した。 第二合戦 [ ] 雪風の島居威美大佐が二水戦部隊の指揮を引き継ぐと、23時36分、駆逐艦四隻(雪風、浜風、清波、夕暮)はスコールの中で18分という異常な速さで魚雷の次発装填を終えて戦場に戻った。 第36. 1任務群も、リアンダー、ラドフォード、ジェンキンスを分離して陣形を立て直し、北方への追跡を開始したが、第一合戦の間に前衛の駆逐艦ニコラス、オバノン、テイラーの所在が不明となっていた。 23時56分、ホノルルのレーダーは右前方に複数の目標を探知する。 ところが、エインズワース少将にとっては、この目標が所在不明のままの味方の駆逐艦なのか敵の部隊なのか全く判断がつかなかった。 エインズワース少将の幕僚たちは「レーダーに映るのはニコラスやオバノンたちだ」と進言して同士討ちを躊躇させていた。 戦史家のは皮肉を込めてこの幕僚たちを「 wise guy(お利口さん)」と称している。 二水戦部隊は23時57分に第36. 1任務群を発見すると、再びスコールを利用して距離6,500~7,400メートルの距離まで接近し、第36. 1任務群が何も戦闘を起こさないうちに、7月13日0時5分に二度目の魚雷発射と砲撃を行う。 二水戦部隊の砲撃により、ようやく敵味方の区別がついたエインズワース少将は、右に針路をとって砲撃を開始する。 その時、二水戦部隊からの魚雷が第36. 1任務群を襲い、セントルイスの艦首に1本が命中して艦首下部をもぎ取り、ホノルルの艦首と艦尾にもそれぞれ1本ずつ命中。 艦尾に命中した魚雷は不発だったが 、艦首に命中した魚雷は爆発してホノルルの艦首は垂れ下がった。 いまや第36. 1任務群の陣形は乱れ、後衛にいたグウィンがホノルルの前方に出現していた。 0時14分、グウィンに魚雷が命中して大破炎上。 さらにブキャナンとウッドワースが衝突事故を起こして損傷した。 0時30分、二水戦部隊は戦場を離脱。 これを見たエインズワース少将は追撃を命じるが、その命令に従ったのはラルフ・タルボットだけだった。 二水戦部隊は5時15分、ブインに帰投した。 大破したグウィンはダメージ・コントロールもうまくいかず浸水が増大し、結局グウィンは士官2名と乗員59名を道連れにして味方によって海没処分された。 輸送隊は海戦の間隙を縫って7月13日0時36分にコロンバンガラ島アリエル入江に到着し 、輸送物件全ての揚陸に成功の後、1時43分にコロンバンガラ島を離れる。 ブインへ帰投途中、皐月と水無月は神通の捜索に向かうが何も発見せず引き返した 輸送隊は11時40分にブインに帰投した。 損害 [ ]• 日本海軍の損害 沈没:神通 伊崎少将以下、第二水雷戦隊司令部全滅 損傷:雪風 上記の通り破損は誤認の可能性がある• アメリカ海軍の損害 沈没:グウィン 損傷:ホノルル、セントルイス、リアンダー、ブキャナン、ウッドワース 雪風はアメリカ軍の巡洋艦3隻撃沈を主張したが、これは三つの火柱を確認した斉藤(雪風水雷長)が「は1発で1隻を撃沈する」というを持っていたからである。 外南洋部隊の判断は「乙巡(軽巡洋艦)一隻轟沈、一隻撃沈、二隻炎上(内一隻撃沈確実)」というものであった。 も外南洋部隊の判断をおおむね追認して昭和天皇に奏上しており 、『巡洋艦4隻以上と交戦、2隻撃沈、1隻炎上、味方巡洋艦1隻大破、この戦いをコロンバンガラ島沖海戦と呼称す』というを行った。 日本海軍は司令部が全滅した第二水雷戦隊再建のため7月19日付で第四水雷戦隊(司令官少将)を解隊し、翌7月20日付で、その要員と兵力を転用し新しい第二水雷戦隊として再編成した。 海戦の後 [ ] 第七戦隊などの出撃と輸送作戦 [ ] 日本海軍は、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦の結果、ソロモン方面の連合国軍の残存水上兵力は「巡洋艦3隻、駆逐艦6隻」程度と判断した。 また、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で巡洋艦を伴った連合国軍艦隊が出現した事を鑑み、南東方面部隊に増援させていた第七戦隊を活用して残存水上兵力を撃滅し、輸送作戦を安全に実施できるようにするという計画を立てた。 その前段階として、コロンバンガラ島への輸送物件を事前にブインに輸送することとなった。 7月16日夕刻、輸送物件を載せた駆逐艦(第11駆逐隊)と(第30駆逐隊)はラバウルを出港し、翌17日朝にブインに到着。 ただちに皐月と水無月へ物件の移送作業を進めるも空襲を受け、初雪が沈没、皐月と水無月(資料によっては夕凪) が小破するという被害を受けた。 一方、第七戦隊は鳥海などとともに16日夜にラバウルを出撃していたものの、ブインへの空襲の報を受けて一旦退却した。 7月18日夜、以下のような顔ぶれで輸送作戦を再開する事になった。 主隊:重巡洋艦:〔第七戦隊旗艦〕、、鳥海• 第三水雷戦隊:軽巡洋艦〔第三水雷戦隊旗艦〕:駆逐艦雪風、浜風、清波、夕暮• 輸送隊:駆逐艦三日月、水無月、松風 主隊および第三水雷戦隊は7月18日22時にラバウルを出撃し 、翌19日夕刻に輸送隊と合流した。 主隊と第三水雷戦隊はクラ湾北方で敵艦隊を捜索するも遭遇せず反転し 、輸送隊は23時40分にコロンバンガラ島の泊地に到着して7月20日0時35分までに揚陸作業を終えた。 しかし、艦隊は姿を見せなかったものの、一連の第七戦隊など行動は「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のアメリカ海軍のによって筒抜けとなっていた。 「ブラックキャット」機の報告によりから夜間攻撃隊が出動し、引き揚げる第七戦隊と第三水雷戦隊を攻撃する。 夕暮が最初の攻撃で轟沈し 、次いで熊野にも魚雷が命中して舵故障等の被害を与えた。 清波は夕暮の救援のため反転するも 、2時30分以降消息が途絶えた。 輸送隊の水無月と松風も至近弾で損傷した。 アメリカ軍の損害について、雪風は対空砲火で4機を撃墜したと主張している。 残存艦艇は17時30分にラバウルに帰投した。 軍令部総長はに対し、この戦闘について以下のように報告している。 一一三〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。 敵機の攻撃ありしも、被害なし。 掩護隊 7S及d数隻 クラ湾西方にて夕刻より敵機の触接を受け、今朝一時頃、爆雷撃を受く。 「熊野」〔重巡洋艦〕魚雷一命中、舵故障、但し26kt〔ノット〕にて避退中。 「夕暮」〔駆逐艦〕爆撃により艦体切断沈〔没〕、之が救援の「清波」〔同上〕消息不明となる。 午後、六月二四日の記録映画、下見す 無声。 夜、天覧あらせらる。 7月22日、水上機母艦「日進」が駆逐艦3隻(萩風、嵐、磯風)の護衛のもと、戦車などの輸送物資を載せてコロンバンガラ島へ向かったが、ショートランド近海で米軍機の空襲により撃沈された。 エーンスワース提督は、二回の海戦において、適当な夜間隊形で接敵した。 単縦陣の巡洋艦部隊を中央に、その前後に、それぞれ駆逐艦を配備していた。 二回とも、エーンスワースの巡洋艦は日本艦隊に近迫し、五分間ほど、急射撃を浴びせ、次いで日本の魚雷を回避するため針路を反転した。 これは、理論としては適当であったが、実施の面では二つの欠陥があった。 第二に、エーンスワースが自分の肉眼で容易に目標を視認できるほど、日本艦隊に近寄りすぎ、しかも射撃開始の時機を失したため、日本軍は慎重に狙いを定め、魚雷を発射することができた。 日本の魚雷は彼が針路を反転しているときに列線に到達した。 したがって、各海戦において、彼の巡洋艦には転舵中に魚雷が命中し、米軽巡ヘレナは最初の夜戦で、ニュージーランド巡洋艦リアンダーは二回目の夜戦で、ともに行動不能になったのである。 またニミッツ元帥は、エインズワース少将が日本の駆逐艦に魚雷次発装填装置があることを知らず、無警戒だった点を指摘している。 巡洋艦を中央に置き、前後に駆逐艦を配置する陣形は1942年10月11日の以来常用していたものである。 しかし、大乱戦となった1942年11月13日のはさておいて、コロンバンガラ島沖海戦で神通への止めを刺すための突撃をするまで、駆逐艦は海戦においてあまり活躍していなかった。 この点を踏まえ、ニミッツ元帥は評を以下のように締めくくっている。 要するに、アメリカ側は、この海戦において、戦術の面では、前年にくらべて大きな進歩を示したが、戦闘能力と敵戦闘力に対する認識の点では、依然として欠けるところがあった。 1任務群は中枢の巡洋艦が沈むか損傷などにより事実上戦力外となった。 ソロモン方面のもう一つの有力なアメリカ海軍の水上部隊である第36. 9任務群(少将) は、7月12日未明にムンダを砲撃し 、7月15日に「ザ・スロット」と呼ばれたを行動しているものの 日本艦隊と会敵する事はなく、を経て7月の中旬から下旬にかけては近海で行動していた。 前述のとおり、7月20日の戦闘以降も日本艦隊はコロンバンガラ島への輸送の際はブラケット水道を経由することとなった。 連合国軍はこの海域にを配備して妨害行動に出たものの、1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害とはならなかった。 連合国軍の敗北により第36. 1任務群の兵力減少と第36. 9任務群の遠方での行動は、連合国軍による当面の妨害手段は魚雷艇と駆逐艦、航空機のみとなっていた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 「 昭和18年 六月三〇日 水 曇 戦況。 昨夜「コロンバンガラ」に敵艦砲撃あり。 今朝「レンドバ」島に敵大規模の上陸を企図。。 以下略 」• 「 昭和18年 七月二日 金 半晴、時々雨」• 「 昭和18年 七月六日 火 曇 一六〇〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。 以下略 」• The U. Navy Against the Axis, p. 185には、三日月は神通付近に留まっていたところホノルルからの砲撃を受け退避した、とある。 「 昭和18年 七月一三日 火 晴、暑気加はる 一五三〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。 以下略 」• 「 昭和18年 七月一四日 水 晴 一五三〇、軍令部総長〔奏上〕。 以下略 」• 「 昭和18年 七月一八日 日 半晴 戦況。 「コロンバンガラ」砲撃。 以下略 」• 「 昭和18年 七月二三日 金 晴 中略 戦況。 以下略 」 出典 [ ]• 292-293頁• 294頁• 295頁• 『戦史叢書96』235ページ• 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp. 木俣, 333ページ• 246頁• 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp. 246-247頁• ポッター, 368ページ• 209頁• 佐藤, 80ページ• 木俣, 333、334ページ• 140頁• 336頁、366頁• 251頁• 205頁• 366頁• 247頁• 208頁• 247頁• 208頁• 110頁• 208頁• 208頁• 111頁• 209頁• 209頁• The U. Navy Against the Axis, p. 183• コロンバンガラ島沖夜戦、186-187ページ• 251-253頁• コロンバンガラ島沖夜戦、186ページ• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、247ページ、コロンバンガラ島沖夜戦、186ページ• 104頁• 332頁• 104-108 田中雄二郎(元神通乗組員、戦後は東京家具商)証言• 210頁• 186• 113頁• The U. Navy Against the Axis, p. 185• 日本水雷戦史、338ページ• 256頁• 187• 188• 258頁• 140-141頁• 212頁• 336頁• 142頁• 298-299頁• 259頁• 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101000, pp. 300-301頁• 『戦史叢書96』248ページ• 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 21,22• 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 263頁、『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 27,29• 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 265頁• 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp. 302-303頁• 木俣, 325ページ• ニミッツ、ポッター, 127、135、142ページ• Naval History Information Center. 2011年7月20日閲覧。 フェーイー, 53ページ• フェーイー, 55ページ 参考文献 [ ]• 『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105800(『第三水雷戦隊戦時日誌』) 『外南洋部隊戦闘詳報(第一九号) 自昭和十八年六月三十日至昭和十八年八月十五日作戦』 第八艦隊司令部、C08030023200(『外南洋部隊戦闘詳報』) 『自昭和十八年七月二十日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』第二水雷戦隊司令部、C08030101000(『第二水雷戦隊戦時日誌』) 『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第七戦隊戦時日誌』第七戦隊司令部、C08030047800(『第七戦隊戦時日誌』) 『RX方面邀撃作戦ニ於ケル外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報第一号』第七戦隊司令部、C08030047800(『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』)• 『艦隊ぐらしよもやま物語』光人社、1983年。 Vincent P. O'Hara, The U. Navy Against the Axis: Surface Combat 1941-1945, Naval Institute Press, 2007,• 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年• 『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫新装版、2013年。 駆逐艦雪風手記編集委員会『 激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。 『一海軍士官の太平洋戦争 等身大で語る戦争の真実』高文研、2001年。 斉藤は「雪風」水雷長として本海戦に参加。 坂本金美『日本潜水艦戦史』図書出版社、1979年• 「コロンバンガラ島沖夜戦 捨て身の戦法の勝利」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』潮書房、1985年、180-191ページ• 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争 第6巻 』光人社NF文庫、1995年、• 城英一郎著『 侍従武官 城英一郎日記』野村実・編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 『新版 軍艦武藏 上巻』太田出版、2015年。 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社NF文庫新装版、2004年。 『私の「昭和の戦争」』アスコム、2007年。 『奇跡の駆逐艦『雪風』 週刊サンケイ 1967年6月19日号 通巻841号』、1967年6月。 戦史室編『96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』、1976年• Morison, Samuel E. 1949 , BREAKING the BISMARCKS BARRIER 22 July 1942 - 1 May 1944 VOLUME SIX of History of United States Naval Operations in World War II, Little, Brown and Company,• 『恐るべき水雷戦隊だましい 丸 臨時増刊 昭和32年4月発売 通巻113号』潮書房光人新社、1957年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]•

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こ がら や

理由の1 多数・かつ多様 「ぢゃんがら」の名をもつ芸能 グループは、いわき市内だけで100か所近くあります。 個々のぢゃんがらの芸態は基本構成こそある程度共通していますが、鉦・太鼓のリズムや唄などはそれぞれ異なっており、まったく同じぢゃんがらというものはありません。 理由の2 新盆供養 現在わたしたちは「いわき市青年じゃんがら大会」や各種芸能イベント等の機会にぢゃんがらをまぢかに見ることが可能です。 なぜなら、ぢゃんがらはお祭り的なパブリック・イベントではなく、新盆の家で行われる供養というプライベートな性格を持っており、場所や時間等の情報も公開されていない(というか、そもそも情報が存在しない)からです。 わたしたちも、地元いわきの方のご案内を得て、はじめてナマのぢゃんがらにアクセスすることができました。 新盆供養という行事目的を大切に守り続けている民俗芸能-それがぢゃんがらです。 理由の3 神出鬼没 広域を神出鬼没(車で移動) ナマのぢゃんがらと出会う難しさは、それだけではありません。 現在の伝承系ぢゃんがらは、必ずしもそのグループの地元の新盆の家だけでなく、他地域にも盛んに出張して、新盆供養の踊りを踊ります。 訪問する新盆宅は多い時には1日に10軒以上にもなり、さらにその場で飛びこみでの訪問もあるとのこと。 広大な面積を誇るいわき市一帯をクルマであちこち移動するぢゃんがらをつかまえるのは、地元の人でも至難の業。 神出鬼没のダイナミズム-これもまた、ぢゃんがらの大きな特徴です。 理由の4 名前 ぢゃんがらの名前も問題です。 「じゃんがら念仏」「じゃんがら念仏踊り」とも呼ばれ、その名称は伝承団体ごとにまちまちです。 古い文献史料でも「さんがら」「じんがら」などと記したり、「自安我楽」といった仏教的当て字もあります。 たくさんの名前を持つぢゃんがら。 統一感はありませんが、それぞれのぢゃんがらの文化的多様性が守られていると考えれば、むしろうれしい点といえます。 一方、そもそもなぜ「ぢゃんがら」というのか、その理由は必ずしも明らかではありません。 確かに、ぢゃんがらは中世期~近世期に見られる古い念仏芸能の要素を持っており、念仏踊りであることに違いはありません。 しかし一方で、ぢゃんがらは近世以降の「盆踊り」の性格も濃厚に持っています。 盆踊り研究の視点からもたいへん注目される点ですが、ぢゃんがらはそれだけ単純化しにくい複雑な芸能的性格を持っているともいえるでしょう。 理由の6 失われた記憶 ぢゃんがらは、明治時代初頭に激烈な弾圧を受け、そして復活しました。 江戸時代の記録によると、当時のぢゃんがらの姿は現在のようなストイックなイメージのものと異なり、むしろ民衆エネルギーの奔出を感じさせるようなものだったようです。 ぢゃんがらの経験してきた激動の歴史もまた、ぢゃんがらの姿を捉えにくくする理由のひとつとなっているようです。 理由の7 もうひとつのぢゃんがら ぢゃんがらと同じ名前の民俗芸能が、遠く離れた地方に存在します。 長崎県・平戸地方には、盆の念仏踊り「平戸ジャンガラ念仏」があります。 エイサーは、じゃんがらが起源? ぢゃんがらの起源伝承にも登場する「袋中(だいちゅう)上人」は、いわき出身の実在の人物ですが、念仏布教のため琉球に滞在したことがあり、沖縄ではエイサーの伝承者とされています。 以下、他の項ではぢゃんがらの持つ豊かな文化をさまざまな角度から読み解いていきたいと思います。

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