偉人 たち の 健康 診断。 1/9 BSプレミアム 偉人たちの健康診断「明智光秀

“天皇の料理番”が仕込んだ、おいしさの秘策! 偉人たちの健康診断 |NHK_PR|NHKオンライン

偉人 たち の 健康 診断

今回の主人公は秀吉に天下を取らせた原動力とも言われている天才軍師の黒田官兵衛である。 その官兵衛がさらに頭角を現すのが秀吉の配下となってからである。 備中高松城攻めでは日本ではほとんど行われた事のない水攻めを行うなど、その発想力で秀吉の天下取りに貢献するのであるが、その 発想力は彼の食生活に原因があるとしている。 官兵衛の兜と言えばお椀になっているのは有名であるが、官兵衛はそのお椀に盛る ご飯にこだわっていたという。 食事は常にご飯の友を用意させて玄米飯をモリモリと食うようにしていたとか。 米食が知能を発達させる? 世界の知能指数のランキングを見ていると、米食のアジア人の方が高い傾向があり、これは米食に原因があるのではとされているという。 米食はパン食に比べてブドウ糖の吸収が緩やかであって持続性がある。 脳はブドウ糖しかエネルギーに出来ないので、このブドウ糖が持続するというのが重要なのだという。 これは米には難消化性デンプンが多いためだという。 これが 脳の灰白質の成長を促す事になり、知能の向上につながるのではないかとしている・・・のだが、正直なところ半信半疑。 米食が効いているというよりも、知能の面において黄色人種の方が白人などよりも優っているという人種的違いの可能性もある 概して白人の神経はがさつで大雑把である。 なお米食は血糖値の上昇がゆるやかと言っているが、これはあくまで玄米の場合であって、白米にしてしまうとその効果はかなり損なわれるし、何よりも栄養価が落ちることになるので、白米ばかりを食べていると脚気になるのは有名な話。 命の危機に瀕した官兵衛が患った病 しかし天才官兵衛にも危機があった。 秀吉と共に毛利を攻めていた時に副将の荒木村重が裏切ったのである。 このままでは挟み撃ちされる危機に官兵衛は村重を説得に出向くのであるが、 捕まって牢に入れられてしまう。 1年後にようやく織田軍に救出された時には官兵衛は自分で歩く事が出来ないほどに衰弱していたという。 またこの時に 足が曲がってしまったらしい。 官兵衛の足が曲がってしまったのは狭い牢に押し込まれて足が伸ばせなかったからとされていたが、実際の牢は一畳ほどの狭さで圧迫感は半端ないが、足が伸ばせないというほどではなかったという。 それよりも不衛生な環境下でシラミなどに悩まされ、掻いた傷口などから 細菌感染して骨髄炎や骨膜炎を発症して足の骨が固着してしまったのでとしている。 なお牢獄などの監禁下ではストレスによる精神の障害の方が問題になるという。 実際に囚人などで監獄爆発と言われる精神の障害が発生する場合があると言う。 官兵衛はいつ殺されるか分からない状態で監禁されているわけであり、そのストレスは半端ではなかったはずだがそれでも 官兵衛が正気を保てた理由は、官兵衛が牢獄の窓から見た藤の花にあるという。 花には見るだけで人の心を癒やす効果があり、実際に交感神経が抑えられて副交感神経が高まったという研究報告もあるとか。 なお解放された後に官兵衛は家紋を藤の紋にしたというから、確かに癒やされたのは事実かも知れないが、そもそも官兵衛のメンタルは相当に強かったのだろう。 でないと、藤の花ぐらいで正気は保てない。 官兵衛の死因は梅毒? 最後は官兵衛の死因についてであるが、官兵衛は秀吉の朝鮮出兵に従軍しているが、その時に 腫れ物の悪化などによる体調不良で戦線を離脱している。 日本軍は官兵衛離脱後に急激に戦況が悪化して、激怒した秀吉は官兵衛のせいだと官兵衛に蟄居を命じ この頃の秀吉はもう既に正気ではなくなっている 、官兵衛はこの時に髷を落として一線から退き、この頃から如水を名乗り始めたという。 秀吉の死後、関ヶ原の合戦が起こるのを見越した官兵衛は私財で兵を集め、東軍につく事を表明して西軍の諸将の城を攻略、後にその功で黒田家は大大名になる 官兵衛の功と言うよりも、息子の長政の功ではないかとも思うのだが。 しかし官兵衛は死の1ヶ月前に奇行が現れる。 それまで家臣には温厚に接していた官兵衛が、突然に理由もなく家臣達を怒鳴りつけるということを起こしたのだという。 家臣達は 精神が錯乱したのではと危ぶんだとか。 官兵衛が患っていた病気は官兵衛が朝鮮から帰国する直前に秀次に宛てた手紙から推測できるという。 その時に官兵衛が服用していた薬の事がかいてあり、その薬は水銀系の薬だったらしい。 当時は梅毒の治療薬として水銀が使用されており 現代医学の観点からは治療薬どころか有害である 、そのことから 官兵衛は梅毒を患っていたと推測されるという。 梅毒は感染後3週間ぐらいで患部に腫瘍が出来、3ヶ月後ぐらいに全身に発疹が現れる。 しかしその後、一旦症状が治まり 潜伏梅毒と言うそうだ 2~30年ぐらいで脳障害などが現れて死に至る事があるという。 つまり 官兵衛はこの潜伏梅毒の間に九州を荒らし回る活躍をし、それが59歳になった時にとうとう脳がやられて錯乱したということだと考えられるという。 以上、天下一の策士・黒田官兵衛について。 なお官兵衛は頭に何やら腫瘍があったらしいが、牢から解放された時に皮膚病を患っていたとの話があるので、その時のものという可能性も高い気がします。 ちなみに官兵衛の考案した水攻めは山がちの日本ではあまり用いられた事がない戦術ですが、中国の古典なんかにはしょっちゅう出てきます。 ですから何も官兵衛のオリジナルというわけではなく、官兵衛は中国の兵法書なんかで知っていたんでしょう。 もっとも臨機応変にそれらの知識を活かせるというのはかなりの知恵がないと出来ない事です。 なお官兵衛は秀吉に天下を取らせた男でもありますが、同時に秀吉を恐れさせた男でもあります。 秀吉が「私の後に天下を取るとしたら官兵衛だ」と言っていたのは彼の才能を高く評価すると同時に、その才を恐れていたという証明でもあり、だからこそ天下がほぼ定まった晩年には遠ざけられたということがあるようです。 「狡兎死して走狗烹らる」と言いますが、天下を平定する時には有用だった才も、天下を手中にすると今度は自分にとっての脅威になるので処分される。 この中国の言葉は当然ながら官兵衛もよく知っていたでしょうから、晩年に秀吉に遠ざけられただけでなく、自ら難を逃れるために遠ざかったという面もあるような気もします。 忙しい方のための今回の要点 ・官兵衛は若い頃から戦において10倍の敵を打ち破るなど才を示していたが、秀吉に仕えるようになってその才がさらに開花する。 ・官兵衛はその非凡な発想力が強みであったが、それを培ったのは米食だったのではと言うのが番組の説。 ・米食はパン食よりもブドウ糖の持続時間が長く、そのために脳の灰白質の成長を促し、知能が向上するとの事 どこまで本当かは私は半信半疑。 ・官兵衛は寝返った荒木村重を説得に言って捕まり、牢に入れられてしまう。 その牢の中で彼は骨髄炎や骨膜炎を起こして足が曲がってしまった。 ・官兵衛の死因は梅毒と推測される。 朝鮮出兵の時に一度体調を崩しているが、その後に潜伏梅毒の期間になって九州で大活躍するが、最後は精神の錯乱が現れてから亡くなっている。 忙しくない方のためのどうでもよい点 ・黒田官兵衛の戦術の極意は戦わずにして勝つ事で、味方のみならず敵も含めて人命を大切にした軍師と考えられると番組では言ってましたが、その割にはどうも陰険な軍師のイメージもつきまとっているのはなぜでしょうかね。 天下に野心を持っていたらしきエピソードなんかが残っているせいでしょうか。 しかし現実問題として、黒田では天下は治まっていなかったと思います。 次回の偉人たちの健康診断 前回の偉人たちの健康診断 ksagi.

次の

NHK BSプレミヤム 「偉人たちの健康診断・第2弾」 :: 漢方専門薬局 むつごろう薬局

偉人 たち の 健康 診断

葛飾北斎 1760年9月23日、現在の東京墨田区で生まれた葛飾北斎。 幼い頃から絵を描くのが大好きな少年でした。 彫り師の見習いとして絵を学んだ北斎は、19歳の時に浮世絵師勝川春章に弟子入りします。 そしてわずか1年後には勝川春朗という名前で浮世絵師としてデビューしたのです。 その後人生を浮世絵に費やす北斎でしたが、彼の代表作のほとんどは70歳以降に描いたものでした。 30歳の頃は「模倣ばかり」と世間に評価されるほどでした。 しかしそれは北斎の勉強の方法でもあったのです。 北斎は30代の頃はあらゆる手法の絵を学び、徹底的に模倣しながら学んでいました。 そしてその学びが70歳以降の北斎の絵につながるのでした。 天才的な脳と長寿の秘訣 北斎の代表作の1つである富嶽三十六景。 70歳を過ぎた北斎でしたが、実際に現地を訪れながら絵を書いていました。 いわゆるスケッチ旅行を行なっていたのです。 その中の1枚に山下白雨という絵があります。 これだけはどこからみた富士山なのかわからず、長い間謎とされていました。 この絵を現代科学で調べると、案と2500mの上空からみた富士山の絵でした。 当時、実際に見ることのできなかった上空の富士山を、北斎はどうやって描くことができたのでしょうか? その秘密は北斎の 空間認識能力にありました。 北斎は旅をしながら、頭の中で地図を作り上げ、そしてそのイメージで山下白雨の構図を思いつき描いたと考えられます。 空間認識能力を司るのは脳の海馬と呼ばれるところです。 北斎はこの海馬が発達していたのでした。 しかもそれには北斎のスケッチ旅行が関係していたと考えられます。 運動が脳の健康を保つのに有効だということが近年わかってきました。 北斎は70歳過ぎても旅ができるほどの健脚の持ち主でした。 その足で旅を続けながら、知らぬ間に脳の若さも保っていたのです。 そしてそれが北斎の長寿にも繋がっていたと考えられるのです。 ものぐさ北斎の長寿の秘訣 絵を描くことだけに人生を捧げた北斎の生活は、とてもものぐさなものでした。 ほとんど布団から出ずに、布団の中で四つん這いで絵を描き疲れたらそのまま横になって寝ます。 北斎はそんな生活を送っていたとされています。 部屋もゴミだらけの北斎は、汚くなると引越を繰り返し93回も引越しをしたと言われているほどでした。 しかしこのものぐさの姿勢が北斎の長寿に関係あったようです。 うつ伏せや四つん這いの姿勢は腸の環境にいいとされています。 それはおならが出やすい姿勢だからです。 腸には腸内細菌がたくさんありますが、ガズが溜まってしまうと腸内環境が悪くなり細菌の数も減ってしまいます。 おならをすることで腸内環境がいい状態に保たれるのです。 北斎のものぐさの四つん這いの姿勢が、北斎の腸内環境を良好状態に保ていたのかもしれません。 絵のための人生 長寿だった北斎ですが、70歳を前にして一度病に倒れます。 それは中風と呼ばれる、軽い脳梗塞でした。 当時は気の少ない人はなる病とされていましたが、北斎はなんとかして病を治しまだまだ絵を描き続けたいと思います。 当時、ゆずが中風にいいとされたいたので北斎は自らゆずで薬種を作ります。 ゆずなどの柑橘類は血管を拡張させる効果があるとされています。 この薬種を飲んで北斎は再発を予防していたのです。 そして残りの人生今まで学んできたことの全てを出して絵を描こうと思った北斎。 この頃から作風が変わり、たくさんの名画が生まれたのです。 そんな北斎も1849年4月12日、90歳でなくなりました。 老衰でした。 好きなことをやり通した北斎。 生涯現役で人生に幕を閉じたのでした。

次の

偉人たちの健康診断 「平安貴族VS.糖尿病 藤原道長の憂うつ」2018年2月

偉人 たち の 健康 診断

偉人たちの健康診断「の隠れた病」を見た。 病気、怪我に関する記述がほとんどない信長は健康だった? の史料には健康に関する記述がほとんど無いという。 ということは目立った病気が無いということかも知れない。 身体や健康を窺い知ることが難しい信長の史料を探り、健康に関係しそうなエピソードを集めて推測したのが今回の番組内容。 多くの武将は病気や怪我を幾らかしているようで、その都度、記録が残っているそうだ。 は49歳で 当時は中風と言ったらしい になっているという。 とセットで語られることも多いライバル、は47歳で隔 消化器疾患 を患ったという記録がある。 の家来だった時期もあり、後に天下を治めたは健康に気を使っていたと言われているが、彼も42歳のときに背中に腫瘍が出来た。 秀吉にも病気をした記述はあるという。 戦乱の世で活躍したツワモノの武将たちも、40歳を超えたあたりには現代人と同じように病を患っていたのだ。 活躍したくらいだから健康とも言えるが、それだけ肉体を酷使したということでもあるかも知れない。 人間50年と言われた時代でもあるし、死に直結する病になってもおかしくなかっただろう。 にはという信長に関する史料があり、合戦や政治、趣味や服装に至るまでかなり詳細な記述があるそうだ。 37歳と43歳に戦で鉄砲によるかすり傷を負ったという記述はあるものの、それ以外の目立った病気や怪我の記述は無いという。 自分をより上の地位にしようと画策した様子もあり、自らを神格化しようとした信長だから、病気や怪我の記述を隠させていた可能性はある。 しかし、素直に読むと信長は健康だったのは無いか?と思える。 では、何が彼を健康にしたのか? 太ももを鍛える強度の強いでを防ぐ 岐阜という地名は、がその地を手中に収めた際に「井之口」から改名させたことから始まるのだと言われている。 その岐阜の 329m にがある。 を取り壊して新たに建てたのがだ。 1567年、信長はに拠点を移したという。 34歳のことだ。 山城は合戦のときに襲われにくい利点があって作られているもので、普段からここを拠点とするのは珍しいことだったそうだ。 城下町からも遠かったことだろう。 しかし、信長はこのを住居とし、のふもとにも客を招いたときに使ったと思われる大規模な建物を作っていたという。 日本に布教に来た宣教師が記述した「日本史」という史料によると、信長に何かしらの報告があるものは、彼がふもとの舘にやってくるのを待っていたという。 何かあると、は山とふもとを頻繁に往復していたのである。 この時、使っていたと思われる山道は百曲がりと呼ばれ、足場が悪く歩くのも大変で、馬では行き来できなかったと思われるとのこと。 そこを信長は登ったり降りたりしていたのだ。 現代人がここを上ると行きは50分、帰りは40分ほどだという。 信長の時代は足腰も心肺機能も高い人は多かったろうから、もう少し早いかも知れない。 それでも、かなり高い強度で、十分な時間のになるという。 症、糖尿病、高血圧症、 の総称である。 の予防する習慣としては、運動、食生活改善、節酒、禁煙、適切な運動が挙げられるという。 運動でもとりわけが推奨されているそうだ。 予防に有効なを、信長は実践していたのである。 信長はに9年間住んでおり、この間、絶えず山の登り降りを繰り返していたことになる。 次に拠点とした近江の国 現在の のも安土山という山に建てられた。 山にある上、城自体が地下1階、地上6階で高さにして30mもあったそうだ。 1579年、信長46歳のとき、ここに移り住んだ。 信長が初めてという天主 閣 は眺めは良かっただろうが、行き来は大変だったろう。 寝所、家来と会う広間、閣とを行き来するには階段を上り下りしなくてはいけない。 地上6階というが、高さは現在の10階建のビルに相当するそうだから、階段の距離もそのくらいあったということだ。 通常のウォーキングでは運動強度が足りず、最近は運動という階段ような段差を上り下りする運動が効果的だとして、者のリハビリに取り入れられているという。 筋肉の動きを計る筋電計では、階段の上り下りは通常のウォーキングの3倍の運動効果が得られるという結果が出たとのこと。 信長はそれを日常的に行っていたのだ。 で49歳で死んでいるので、信長は死ぬまでこの生活を続けていたことになる。 この他にも、酒を飲まずに食事も摂生していたという。 ・・の頭蓋骨の一部を杯にして酒を飲んだとされているが、普段は飲まなかったのだ…。 その伝説は嘘だという話もあるようだが。 髑髏杯はで作られ利用されてきたようだ。 なんと、、もこれを持っていたとされている。 酒もほとんど飲まず、喫煙した記録もない。 かなり健康的な生活をしていたようだ。 の上り下りを1年続けると18万kcal、体脂肪量で10kgに相当するそうだ。 ちなみに1日に換算すると訳493kcalになる。 走るのと歩くのとが同じ、また急斜面を上るのと平地を歩くので本当に同じなのか?と思うところもあるが、おおむねその計算で良いようだ。 信長は1日にジョギング10km分の運動をしていたのである。 相当、健康的だ。 消費カロリー以外にも太ももの筋肉を鍛えるのが重要だそうで、急斜面や階段を上り下りすることで歳とともに衰えていく筋肉量を保ったり、増強させたりすることが期待できるそうだ。 筋肉量は個人差があって、太ももの筋肉が落ちて要介護ゾーンに入る人は早い人で65歳あたり、健康で元気な人で90歳くらいと30歳もの開きがある。 太ももを鍛えるのはを伸ばす上で重要なのだ。 ウォーキングは良いとされるが、通常の歩き方では駄目で少し強度を高める必要があるそうだ。 山道や階段の上り下りはかなり強度が高く、平地でも速歩きや大股で歩く、ももを上げて歩くと少し良いようだ。 アメリカの研究で65歳以上の人の歩くスピードと寿命の関係を調べた研究では、例えば70歳で歩くスピードが秒速1. 1mだと寿命は85歳となるそうだ。 その論文はこれだと思われる。 表もここにある。 表を見ると、65歳で秒速1. 5mで歩ければ、男性なら95歳、女性なら102歳あたりまで生きられそうだ。 歩く速度は平均だし、あくまで目安だろうが。 信長は水泳も得意で家康に教えるほどだったというから、心肺機能も相当高かった可能性がある。 現代人は重心が後ろにある人が多い 信長はただ歩いていたのではないからまた驚きだ。 信長は足の前半分の長さしかない草履「足半 あしなか 」を愛用しており、家臣にも褒美としてあげていたという。 サンダルでペッタンペッタン音がするのは、足を持ち上げたときにサンダルと足の間に隙間があくからだろう。 草履でもそれと同じだが、足半だとそれが起こらず楽に動けるそうである。 戦のときに地位の高い武将クラスは馬に乗っているので、この足半を履くのはだという。 信長は常に使っているとは言えないながらも、足半を腰につけていつも持ち歩いていたという。 現代では、足をつけたときに指が地面にしっかりつかない、「浮き指」である人が増えているという。 これだと歩いたり走ったりしたときに、指に重心がかからない、しっかりと地面を蹴ることができない。 ただ立っているだけでも重心が後ろに偏り、かかとに多くの体重がかかってしまう。 すると上にいくに従ってバランスを取るために前傾した姿勢になるという。 すると、腰や首に負担がかかり、腰痛、肩こり、頭痛の原因になる。 指を持って曲げてみて90度近くまで曲がる場合は浮き指の危険性が高いそうだ。 土踏まず付近の筋肉が衰えることで足の甲の横方向のアーチが潰れて浮き指になるとのこと。 足半を使うと、足の半分しか草履がないために自然と足の前に重心が乗るようになり、さらに鼻緒が普通の草履よりも前にあることで指が足半のへりにかかり、指に力が入るようになるという。 信長はこれを履いて山道を登り降りしていたのだろう。 浮き指にならない生活をすることで腰痛や肩こり、頭痛を遠ざけていたのだ。 信長以外にもが兎狩りなどで足半を使っていたらしく、上野のは足半を履いているらしい。 若い人だけの問題では無かったのだ。 しかし、現代人が普段歩くときに足半を使うのは難しい。 手に入らないし、歩くのはつらいし、恥ずかしいだろう。 足半を使わずに浮き指を改善する方法が紹介されていた。 椅子に座り、足の下にタオルを縦に敷いて、それを足の指を使ってたぐり寄せるのである。 こうして足の指を鍛えるのだ。 この訓練法は以前、を予防する方法としてテレビで取り上げられていた記憶があるが、それによれば、すでにになっている人はこれを行うと悪化する危険があると注意喚起されていた。 番組では特に言及されていなかったが、の人はやめておいたほうが良いだろう。 信長の身長を推測する さて、が生きていた時代、身長は記録されていることはまれだったという。 は六尺五寸、今で言う196cm。 という人物は六尺二寸で187cmだった。 よほど特徴的で珍しい場合には記録があるようだ。 あまり重要だと考えていなかったのだろう。 それでも身長をある程度、正確に推測することができるそうだ。 の場合、にあるは正宗の墓でもあり、修復の際に遺骨が発掘され、身長が計測された。 159. 4cmとされている。 の男性の平均身長157cmより少し高いくらいだ。 の場合には、遺骨はあったのだが明治時代の発掘の際に破損してしまったそうだ。 秀吉の場合には、彼が身につけていた甲冑から大きさが推測できるという。 銀伊予札白糸威胴丸具足という鎧はに与えたらしいが、秀吉の体に合わせて作られたという。 これから推測した身長は150から154cmだそうだ。 少し背が低い。 は位牌から身長が分かるという。 愛知県にあるには歴代将軍の位牌があり、これらは死後に身長を測ってその大きさで作られているという。 等身大なのである。 ここから割り出された身長は159cmだという。 2代将軍は160cm、3代将軍は157cmだそう。 しかし、はこれらのどれも使えない。 遺体はで見つからなかった。 も焼け落ちたためか、信長が身につけていた甲冑も残っていないという。 は身長について言及しているが「中くらい」だという。 日本人の中では中くらいなのか、人でいう中くらいなのか分からない。 ある医師が面白い方法での身長を推測した。 を使ったのである。 人体の上腕骨の長さと身長には相関関係があるという。 肩の付け根から肘までの長さを測れば、身長をかなり正確に推測できるのである。 の医学博士、藤井明の1960年の論文「四肢長骨の長さと身長との関係に就いて」で発表された計測法で、考古学で広く利用されているらしい。 右か左かで式の数値が微妙に違うようだ。 上のサイトではmm ミリメートル で計算しているようだ。 番組ではcm センチメートル で計算しており、右腕で計算したため 右上腕骨の長さ x 2. くらいだと腕が現代人よりも長めだったり、短めだったりしそうだが、やくらいならそれほど違わないかも知れない。 絵から肩から肘までの長さを計るにあたっては、縮尺が分かる目安が必要だ。 推測した医師は着物の襟の幅を用いたようである。 当時の着物 小袖 の襟幅は二寸 6cm か五寸 15cm の2パターンに決まっており、それを使って比率を割り出し、肩から肘までの長さを決定したのだ。 その長さを数式に当てはめると身長が推定できるというわけだ。 15cmで計算すると3mを超えることになり現実的ではないので、6cmを採用された。 それを使うとの右腕の長さは34. 5cmとなり 34. 5 x 2. 497 cm となる。 しかし、当時の日本の絵は写実的ではない。 顔もさほど似てないだろうし、幅が決まっているという襟も上は細く、下は広く描かれている。 あまり信用できないと思う。 この計算法自体はかなり精度が高いようで、スタジオでさんが肩から肘までの長さを測って割り出した結果はかなり近いのだという。 芸能人のプロフィールに書いていた身長が嘘だとバレてしまった。 体重についてもほとんどの人物はその記録が無いという。 『養生訓』のが体重を測ってみた最初ではないかと言われているようだ。 の『日本史』によれば、「華奢な体躯」だそうだが、水泳や弓などが得意だったそうだから、欧米人のような見た目に派手な筋肉質では内にしろ、引き締まった細マッチョだったのだろう。 信長の性格から分かる健康上のリスク ここまでおおむね健康であると思われる結果しか紹介されていないだが、実は病気のリスクがあるという。 それは非常に怒りやすいということだ。 信長の怒りっぽさをうかがい知ることができるエピソードが幾つか紹介されていた。 信長が通る道に岩を落としたとして家来を処刑。 必要なときにその場にいなかったとして女中をやはり処刑。 の前に、信長が意見、進言したを足蹴にしたというエピソードは有名である。 のように攻撃的で短気、激昂しやすい性格の人をタイプAとして分類し、そうでない人たち タイプB と比較した調査があるそうだ。 それによると心疾患 や のリスクが普通の人の2倍ほども高いという。 のリスクも高まるらしい。 怒ると血圧が高くなることは知られているが、血小板が変化することもその要因としてあると言われている。 怒るとアドレナリンが出るが、その影響で普段は丸い形をしている血小板がトゲのような突起を出した形になり、お互いにくっつきあう。 するとそれが血管の中で血液の流れを妨げ、血圧を上げたり、血管を傷つけてしまうという。 もしかするとが無いか、そこで生き延びられたとしても、やでさほど変わらない年齢で死んでいたかも知れない。 調べてみると、の後遺症で短気で怒りっぽい性格になる人もいるという。 もしかしたら信長は幼い頃に脳に何かしらの病気があったのかも知れない。 おかしな行動をして「大うつけ」と呼ばれていたからありえない話ではない。 怒りは何かの行動を起こす原動力ともなるから、いちがいに悪いとは言えないが自分の健康にも人間関係や組織運営の点でもマイナスになることが多い。 だからアンガーマネジメントなどを学んで怒りを管理することが必要だろう。 日本初のハーブ園 信長は前述のエピソード以外にも健康に気を使っていたようだ。 のにヨーロッパ原産でここにしか生えていないキバナノレンリンソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジクサという植物がある。 これは信長がの宣教師から薬草となるハーブの話を聞いて作らせた薬草園の名残りなのだという。 江戸時代に小石川養生所と薬草園があったのは有名だ。 多分、こちらは多くが漢方の生薬だろう。 とすると、信長の作ったものは日本で初めてのハーブ園だということになる。 など、画期的なことを始めたことでも知られる信長の医療の分野でも新しいことをしていたのだ。 最後に 信長は自らのエネルギーのおもむくままに突っ走っていた印象があったが、意外に健康に気を使っていたようだ。 しかし、有名な短気で他人に厳しく、ワンマンなエピソードは記述が間違っていなければ事実だ。 自分が元気なのを良いことに他人にも同じだけのことを要求するの経営者的な印象を持った。 昔の人の身長を推測する方法はとても興味深かった。 骨から身長を推測する方法は以前から色々あるらしいが、調べてみると予想通り人種や民族で違いがあり、各国で同じような研究をしている。 また似たようなものとして、象の前足の太さから象の表面積 簡単に言えば大きさ を推測する方法がイグをとっていたのを思い出した。 健康以外にもこういうことを知ることができて面白かった。

次の