五 か 年 計画。 五カ年計画(第1次・ソ連)

ベトナムの国土政策の概要

五 か 年 計画

なお、単に五カ年計画と呼ぶ場合はからのを指すことが多く、第二次以降は第二次五カ年計画などと呼ぶことが一般的である。 ソビエト連邦はこの計画によってを乗り切ったが、その裏にはに対する強制労働や、「」が背景にあった。 は五カ年計画の下で工業国化され、は五カ年計画から理工系エリートの養成がされていた時代に高等教育機関としての重工業を中心とした発展において期待されていく。 も五カ年計画によって急速に発展した都市であり、で知られる市は五カ年計画で重点的にモデル都市として整備された結果、指折りの製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名 ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市として知られた。 もからの第二次五カ年計画が始まると次々に投資がなされた。 後のソ連では頃に海軍力の増強を図っており、連邦海軍の第二次五ヶ年計画においては4隻のの建造を認め、、の建造を決定。 この計画は7U号と呼ばれ、第二次五ヶ年計画で建造されたの純粋な発展型とされる。 や「カリーニン」と「カガノーヴィチ」の追加2隻が承認は1938年の第三次五カ年計画として計画が纏められ、ようやく建造が承認されたものである。 また、世界恐慌をきっかけに台頭したに対抗する関係上から、1930年代を通じて、は反ファシズムの集団安全保障政策を引っさげた。 これらの軍備の一方、五カ年計画による社会主義国家建設に邁進するため、対外関係の緊張緩和が優先されもした。 公式批判の後も、ソビエト政府はが作成する五ヶ年計画を掲げ、軽工業への一定の配慮を示しながら、に備えている。 五カ年計画に基づく・で代表的なものとしては(他)がある。 は第九次および第十次五カ年計画において各線の信号自動化やを進めた。 は五カ年計画と繋がっていた。 製菓工場のは、第九次五カ年計画早期達成の功績でのを受けている。 国の多くでは、ソ連と同様に重要産業のとともに五カ年計画などの、教育の無償化などが行われた。 のでは、1949年からにかけ、五カ年計画で都市建設が始まり、鉄鋼コンビナートで重工業に従事する労働者のための住宅が建設された。 人材 は当時「第二次五カ年計画」の計画達成に頭を悩ませていたソビエト連邦において一躍「第二次五カ年計画」をはじめとするソビエト連邦の建設におけるシンボルに祭り上げられる。 逆には農業の集団化を押し進めることに疑問を呈する。 らは五カ年計画をうけて1923年、「新モスクワ都市計画」を発表。 は五カ年計画に基づく重工業化に対する熱心な唱道者で政治的に復権を果たしている。 はゴスプラン議長に再任され第5次五カ年計画を統括、後のソ連経済の再建に当たるが、他の計画策定者とともに第6次五カ年計画の非現実性については後に批判されている。 「」も参照 アジア・アフリカ 旧においてもが作成され施行された。 日本の戦前期のらはソ連の五カ年計画方式を導入した。 は1954年までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いたものであった。 戦後の日本も内閣の経済自立五カ年計画から内閣の生活大国五カ年計画まで五カ年計画と題された経済計画がつくられた。 内閣では経済計画を定性的にすべきとして「展望と指針」に言い換えられた時期もあった。 また各省庁単位でも、法に基づき策定された五カ年計画に沿って事業が行われる例があった(例: 昭和33年法律第34号 、に関する「世界とともに生きる日本-経済運営五ヶ年計画」) 日本の地方自治体では、かつて東京都が示したプロジェクト型ビジョンの施策「東京緊急開発行動五ヶ年計画」などがあり、埼玉県は(平成5年)より、県の許可を受け五カ年計画で第二浄水場施設の増設を行っている。 では、近年では「計画」が「規画」という言葉に言い換えられている(参照)。 政権下のでは、経済開発政策を打ち出し、その後も5年ごとに五カ年計画が発表された。 ネルーは、企業の私有は認めていた()。 イギリスから独立したにおいては、経済五カ年計画がつくられ、高度経済成長が始まった(参照)。 台湾ではと呼ばれる長期計画が策定され、学術的・文化的発展も視野にいれたを五ヶ年計画で打ち建てた。 も五カ年計画を作成している(・)。 においては、1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1-2次五カ年計画)により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標としていた。 、などの国においても五カ年計画が策定されている。 のは顕著な業績として第2次五カ年計画によってを整備。 の2009年から2014年にかけての五カ年計画に、日本はインフラ整備をはじめとする2860億ドルの投資を行っておりはこのプロジェクトに関係している。 ヨーロッパ・アメリカ ナチス下のではが策定された。 は、世界恐慌後に体制のソ連から巨額の融資と経済顧問団派遣をうけ、の下でから五カ年計画を導入した。 では1946年以降、五カ年計画が実施されることとなり、重工業への転換を行いながら生産数を三倍にすることが期待され、全ての主な銀行、工場、運輸、流通、商業、貿易が国有化、地方の小規模商店は協同組合の一部として組み込まれるなど全ての面での国有化が進んだ(参照)。 の政権(雇用・社会・住宅相:)では、住宅、雇用の保障を3つの柱とする、社会統合のための五カ年計画が発表された。 アメリカの軍事拡張計画でも五ヶ年計画がある。

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道路整備五箇年計画について

五 か 年 計画

前史 [ ] 後、占領後の満洲経済建設の第1期として、(昭和7年)1月に(満鉄)にを設立させ、関東軍特務部の指導のもとで各種の立案業務を担当させた。 その作業により1933年(昭和8年)3月「満洲国経済建設要綱」の立案のほか、平行して個別産業支配の各種特殊会社等の設立提案を経て、多数の特殊会社の設立を見た。 これらの特殊会社の設立にあたっては、政府出資と満鉄出資に資金を依存した。 他方、日本との関係では、1933年11月に関東軍特務部が作成し、1934年3月に決定された「日満経済統制方策要綱」により、統制方針を打ち出した。 さらに参謀本部作戦課長は、満洲経済建設の第2期として、満鉄に「日満財政経済研究会」を組織させ、軍需産業拡充計画を立案させ、参謀本部でも満洲国産業開発を強く主張し、対ソ戦準備のため必要な軍需品を満洲国で生産させるとの方針を主張した。 この方針を受けて陸軍省は8月に「満洲開発方策要綱」を決定した。 それは満洲国において長期の財政および開発計画を樹立し、1940年頃までを第1期とするものであった。 これが関東軍に示されると、関東軍も同年8月に「満洲国第2期経済建設要綱」を提出した。 これにより1940年・1941年を目途とし、日本の在満兵備の充実増強に伴い日満共同防衛の実施を期するとし、産業5カ年計画、財政5カ年計画、特殊会社等の指導監督の方針の立案を急いだ。 同計画の策定と推進 [ ] (昭和11年)の以後日本は軍部主導の化、準戦時体制化に向かい急速に経済の軍事化を進めた。 本計画は、満鉄「日満財政研究会」の案をもとに、、満洲国政府、満鉄の関係者による1936年10月の協議を経て具体化し、(昭和12年)1月、関東軍の「満州産業開発五カ年計画要綱」にて確定され、同年4月から開始されることになった。 1937年2月に関東軍司令部が作成した計画要綱によれば、この政策の目標は、有事の際必要な資源の現地開発に重点をおき、あわせてできるだけ満洲国内の自給自足と日本の不足資源の供給を図るというものであった。 端的にいえば、対ソ戦の経済基礎を構築することが目的である。 そして、同計画は、に代表される日本人農業移民の計画的大量送出計画、国境地帯の戦略的整備と開発を目的とする北辺振興三カ年計画とならぶ「満洲国」の三大国策となり、さらには、(昭和14年)からは日本の生産力拡充計画に組み込まれ、強力に推進されることになった。 同計画の具体的内容 [ ] 同計画は鉱工業、農畜産業、交通通信、移民の4部門にわたり、それぞれ詳細な目標が立てられた。 鉱工業では兵器、飛行機、自動車、車両等軍需産業の確立と、軍事的に重要な鉄や液体燃料の開発が目指された。 1936年(昭和11年)の生産力や施設能力に対する5年後(1941年=昭和16年)の目標数値を掲げている。 計画完成時(1941年度)の生産能力の目標は、鉄鉱石、石炭、製鉄、液体燃料、兵器などでいずれも開始時に比して2から5倍に設定されていた。 それまで満州では生産が皆無だった生産項目も少なくない。 同計画における主な品目別の数値目標 品目 単位 1936年末能力 1941年度目標 銑鉄 トン 850,000 2,530,000 鉄塊 トン 580,000 1,850,000 鋼材 トン 400,000 1,500,000 石炭 トン 11,700,000 27,160,000 石炭液化 トン 0 800,000 頁岩油 トン 145,000 800,000 アルミニウム トン 4,000,000 20,000,000 自動車 台 0 4,000 飛行機 台 0 340 電力 キロワット 458,600 1,405,000 水稲 トン 258,000 418,000 小麦 トン 986,000 2,024,000 大豆 トン 4,201,000 4,730,000 洋麻 トン 7,200 23,100 綿羊 頭 3,012,000 4,202,000 馬 頭 1,900,000 2,302,000 鉄道 キロメートル 7,686 11,948 計画に要する資金は、総額約25億8000万円であり、鉱工業部門だけで約13億9000万円の巨額に達し、当時の満州国の生産水準や日本の資金状況からみて極めて過大なものであった。 政府と軍部は財閥を中心とする経済界に根回しし、長期資金の提供を任務とする満州興業銀行を設立した。 計画の拡大 [ ] 五カ年計画は実施前後から改定・拡大の必要が言われていたが、同計画は実施3カ月後の1937年(昭和12年)7月7日にの勃発によりが全面戦争化し、日本国内での生産力の拡充が迫られ、改定の機運が一気に高まった。 これにより、日本からの対満要求も強まったため、根本から同計画を見直す必要が生じた。 そのため、鉱工業部門を中心に、大拡張を迫られ、以下に見るように修正案が出されることになった。 五カ年計画の主な数値目標当初案と修正案 品目 単位 1936年末能力 1941年度目標(当初案) 1941年目標修正(修正案) 対日供給量目標 銑鉄 トン 850,000 2,530,000 4,500,000 1,520,000 鉄塊 トン 580,000 1,850,000 3,160,000 1,120,000 鋼材 トン 400,000 1,500,000 1,200,000 なし 石炭 トン 11,700,000 27,160,000 31,100,00 6,000,000 石炭液化 トン 0 800,000 1,770,000 なし 頁岩油 トン 145,000 800,000 650,000 なし アルミニウム トン 4,000,000 20,000,000 30,000,000 11,625,000 自動車 台 0 4,000 50,000 なし 飛行機 台 0 340 5,000 なし 電力 キロワット 458,600 1,405,000 2,570,550 なし この修正案は、目標値が当初案の1. 5倍から2倍に拡張されており、対日供給量も示されるようになった。 その一方で、交通通信、農畜産、移民の部門では、おおむね当初案のままであった。 満州経済の総合開発という当初案の視点が弱まり、軍需品生産による対日貢献の側面が強調されることになったのである。 所要資金も25億8000万円から49億6000万円に膨張している。 同計画の後退 [ ] による中国側の本格的な抗戦により、日本側の予想に反し日中戦争が、拡大かつ長期化すると同計画にも矛盾と混乱が生ずるようになった。 計画実現に必要な資金や資材の日本からの供給が困難になる一方で、長期消耗戦に直面した日本の軍需をまかなうため、「満洲国」に対する対日供給の要求は日に日に苛酷化した。 そのため同計画4年目の1940年(昭和15年)度から「徹底的重点主義」に移り、最も重要な鉄鋼や石炭に増産努力を集中して、その他の部門は計画を縮小あるいは中止せざるを得なかった。 この段階で同計画は、生産力の拡充という本来の目的を失い、現有設備での最大の生産をあげるという増産の強行にすぎなくなった。 このことは必然的に、等の各生産部門における労働の強化と労働条件の悪化をもたらした。 もともと本「満洲産業開発五カ年計画」をはじめとする日本側の「満洲国」に対する過剰な鉄道および重工業への投資は、総力戦体制構築という外的要因によって「満洲国」に対して押し付けられたものであって、その経営効率は一般に悪く、日本経済にとっても大きな負担となった。 それゆえ1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていくのである。 出典 [ ]• 岡部・荻野(2010年)54ページ• 岡部(2008年)119ページ• 岡部(2008年)121ページ• 岡部(2008年)124ページ• 参考文献 [ ]• 「満洲産業開発五ヶ年計画」・・編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 平成二十四年 十二月十日 第一刷発行、、462~464頁。 植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編室共編『「満洲国」とは何だったのか』(2008年)(第5章経済と産業-2「満州産業五カ年計画」執筆担当;岡部牧夫)• 岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕編『中国侵略の証言者たち-「認罪」の記録を読む』(2010年)(第2章日本は「満州」で何をしたのか」執筆担当;岡部牧夫・萩野富士夫)• 岡本隆司編『中国経済史』(2011年)名古屋大学出版会(テーマ44「満州の経済開発」執筆担当;安冨歩).

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前史 [ ] 後、占領後の満洲経済建設の第1期として、(昭和7年)1月に(満鉄)にを設立させ、関東軍特務部の指導のもとで各種の立案業務を担当させた。 その作業により1933年(昭和8年)3月「満洲国経済建設要綱」の立案のほか、平行して個別産業支配の各種特殊会社等の設立提案を経て、多数の特殊会社の設立を見た。 これらの特殊会社の設立にあたっては、政府出資と満鉄出資に資金を依存した。 他方、日本との関係では、1933年11月に関東軍特務部が作成し、1934年3月に決定された「日満経済統制方策要綱」により、統制方針を打ち出した。 さらに参謀本部作戦課長は、満洲経済建設の第2期として、満鉄に「日満財政経済研究会」を組織させ、軍需産業拡充計画を立案させ、参謀本部でも満洲国産業開発を強く主張し、対ソ戦準備のため必要な軍需品を満洲国で生産させるとの方針を主張した。 この方針を受けて陸軍省は8月に「満洲開発方策要綱」を決定した。 それは満洲国において長期の財政および開発計画を樹立し、1940年頃までを第1期とするものであった。 これが関東軍に示されると、関東軍も同年8月に「満洲国第2期経済建設要綱」を提出した。 これにより1940年・1941年を目途とし、日本の在満兵備の充実増強に伴い日満共同防衛の実施を期するとし、産業5カ年計画、財政5カ年計画、特殊会社等の指導監督の方針の立案を急いだ。 同計画の策定と推進 [ ] (昭和11年)の以後日本は軍部主導の化、準戦時体制化に向かい急速に経済の軍事化を進めた。 本計画は、満鉄「日満財政研究会」の案をもとに、、満洲国政府、満鉄の関係者による1936年10月の協議を経て具体化し、(昭和12年)1月、関東軍の「満州産業開発五カ年計画要綱」にて確定され、同年4月から開始されることになった。 1937年2月に関東軍司令部が作成した計画要綱によれば、この政策の目標は、有事の際必要な資源の現地開発に重点をおき、あわせてできるだけ満洲国内の自給自足と日本の不足資源の供給を図るというものであった。 端的にいえば、対ソ戦の経済基礎を構築することが目的である。 そして、同計画は、に代表される日本人農業移民の計画的大量送出計画、国境地帯の戦略的整備と開発を目的とする北辺振興三カ年計画とならぶ「満洲国」の三大国策となり、さらには、(昭和14年)からは日本の生産力拡充計画に組み込まれ、強力に推進されることになった。 同計画の具体的内容 [ ] 同計画は鉱工業、農畜産業、交通通信、移民の4部門にわたり、それぞれ詳細な目標が立てられた。 鉱工業では兵器、飛行機、自動車、車両等軍需産業の確立と、軍事的に重要な鉄や液体燃料の開発が目指された。 1936年(昭和11年)の生産力や施設能力に対する5年後(1941年=昭和16年)の目標数値を掲げている。 計画完成時(1941年度)の生産能力の目標は、鉄鉱石、石炭、製鉄、液体燃料、兵器などでいずれも開始時に比して2から5倍に設定されていた。 それまで満州では生産が皆無だった生産項目も少なくない。 同計画における主な品目別の数値目標 品目 単位 1936年末能力 1941年度目標 銑鉄 トン 850,000 2,530,000 鉄塊 トン 580,000 1,850,000 鋼材 トン 400,000 1,500,000 石炭 トン 11,700,000 27,160,000 石炭液化 トン 0 800,000 頁岩油 トン 145,000 800,000 アルミニウム トン 4,000,000 20,000,000 自動車 台 0 4,000 飛行機 台 0 340 電力 キロワット 458,600 1,405,000 水稲 トン 258,000 418,000 小麦 トン 986,000 2,024,000 大豆 トン 4,201,000 4,730,000 洋麻 トン 7,200 23,100 綿羊 頭 3,012,000 4,202,000 馬 頭 1,900,000 2,302,000 鉄道 キロメートル 7,686 11,948 計画に要する資金は、総額約25億8000万円であり、鉱工業部門だけで約13億9000万円の巨額に達し、当時の満州国の生産水準や日本の資金状況からみて極めて過大なものであった。 政府と軍部は財閥を中心とする経済界に根回しし、長期資金の提供を任務とする満州興業銀行を設立した。 計画の拡大 [ ] 五カ年計画は実施前後から改定・拡大の必要が言われていたが、同計画は実施3カ月後の1937年(昭和12年)7月7日にの勃発によりが全面戦争化し、日本国内での生産力の拡充が迫られ、改定の機運が一気に高まった。 これにより、日本からの対満要求も強まったため、根本から同計画を見直す必要が生じた。 そのため、鉱工業部門を中心に、大拡張を迫られ、以下に見るように修正案が出されることになった。 五カ年計画の主な数値目標当初案と修正案 品目 単位 1936年末能力 1941年度目標(当初案) 1941年目標修正(修正案) 対日供給量目標 銑鉄 トン 850,000 2,530,000 4,500,000 1,520,000 鉄塊 トン 580,000 1,850,000 3,160,000 1,120,000 鋼材 トン 400,000 1,500,000 1,200,000 なし 石炭 トン 11,700,000 27,160,000 31,100,00 6,000,000 石炭液化 トン 0 800,000 1,770,000 なし 頁岩油 トン 145,000 800,000 650,000 なし アルミニウム トン 4,000,000 20,000,000 30,000,000 11,625,000 自動車 台 0 4,000 50,000 なし 飛行機 台 0 340 5,000 なし 電力 キロワット 458,600 1,405,000 2,570,550 なし この修正案は、目標値が当初案の1. 5倍から2倍に拡張されており、対日供給量も示されるようになった。 その一方で、交通通信、農畜産、移民の部門では、おおむね当初案のままであった。 満州経済の総合開発という当初案の視点が弱まり、軍需品生産による対日貢献の側面が強調されることになったのである。 所要資金も25億8000万円から49億6000万円に膨張している。 同計画の後退 [ ] による中国側の本格的な抗戦により、日本側の予想に反し日中戦争が、拡大かつ長期化すると同計画にも矛盾と混乱が生ずるようになった。 計画実現に必要な資金や資材の日本からの供給が困難になる一方で、長期消耗戦に直面した日本の軍需をまかなうため、「満洲国」に対する対日供給の要求は日に日に苛酷化した。 そのため同計画4年目の1940年(昭和15年)度から「徹底的重点主義」に移り、最も重要な鉄鋼や石炭に増産努力を集中して、その他の部門は計画を縮小あるいは中止せざるを得なかった。 この段階で同計画は、生産力の拡充という本来の目的を失い、現有設備での最大の生産をあげるという増産の強行にすぎなくなった。 このことは必然的に、等の各生産部門における労働の強化と労働条件の悪化をもたらした。 もともと本「満洲産業開発五カ年計画」をはじめとする日本側の「満洲国」に対する過剰な鉄道および重工業への投資は、総力戦体制構築という外的要因によって「満洲国」に対して押し付けられたものであって、その経営効率は一般に悪く、日本経済にとっても大きな負担となった。 それゆえ1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていくのである。 出典 [ ]• 岡部・荻野(2010年)54ページ• 岡部(2008年)119ページ• 岡部(2008年)121ページ• 岡部(2008年)124ページ• 参考文献 [ ]• 「満洲産業開発五ヶ年計画」・・編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 平成二十四年 十二月十日 第一刷発行、、462~464頁。 植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編室共編『「満洲国」とは何だったのか』(2008年)(第5章経済と産業-2「満州産業五カ年計画」執筆担当;岡部牧夫)• 岡部牧夫・荻野富士夫・吉田裕編『中国侵略の証言者たち-「認罪」の記録を読む』(2010年)(第2章日本は「満州」で何をしたのか」執筆担当;岡部牧夫・萩野富士夫)• 岡本隆司編『中国経済史』(2011年)名古屋大学出版会(テーマ44「満州の経済開発」執筆担当;安冨歩).

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