八百万の神 千と千尋。 日本最大のヒット作『千と千尋の神隠し』この映画が大ヒットした理由とは?

『千と千尋の神隠し』は今どきの少女が仕事を通じて成長していく姿にグッとくる映画

八百万の神 千と千尋

神々の研究 iの研究 第五十八回 <神々>の研究 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を観ていたら、遠い昔のことを思い出してしまいました。 わたしが幼稚園に入る前ですから、四才か五才のころの出来事です。 わたしの母の実家は山梨県甲府市の周縁の村です。 村にはメインストリートがあって、実家はその道から一軒奥に入ったところにありました。 メインストリートといっても商店が並んでいるわけではありません。 ほとんどが農家で、それ以外には寺と小さな雑貨屋が一軒あるだけです。 実家から道に出ると真ん前が寺で、道と寺の間に小さな川が流れていました。 幅が一メートル余りの用水路のような川です。 その川に幼児のわたしは落ちたのです。 落ちて、額に傷をつくりました。 その傷は中学生になるまでは確かにあって、落ちたときの微かな記憶もありました。 わたしが落ちたときの事を母が度々話題にして、その都度、傷の由来とその時の記憶が蘇ったものでした。 傷が消えたころからその話も消えて、わたしも川に落ちたことを忘れてしまいました。 映画の終盤、幼い千尋が川に落ちて川の主である少年ハクに助けられた事実が明かされます。 千尋が思い出せなかったハクとの出会いです。 千尋は靴を拾おうとして川に落ち、溺れたのでした。 溺れたくらいですから、わたしの落ちた用水路とは川の規模が違います。 共通の体験とは言い難いのですが、映画の世界とあの時代の農村が重なって、わたしの記憶の底を掻き回したのでした。 あの時代、というのは1950年代のことです。 母の実家はいたってありふれた日本の農村にありました。 豪農でもなく貧農でもなく、そこそこの農家の集落が母の実家です。 わたしが住んでいたのは地方都市である甲府の街中。 そこから両親に連れられて、小学生になってからは一人で、遊びに行きました。 徒歩でも行ったし、自転車でも行ったし、バスでも行きました。 甲府と村の境はJRのローカル線の踏み切りで、そこから風景と空気が変わったのを良く憶えています。 その踏み切りを渡ると、街の匂いが消えて幾分濃厚な村の匂いが漂ってきました。 家の佇まいにも、人の発する気配にも、その匂いに違いがありました。 前触れもなく一人で現われたわたしを、祖父や祖母や叔父、叔母は無視するでもなく歓待するでもなく、遇してくれました。 わたしは勝手に一人で遊んで、みんなと食事をして、夜は歳が近かった叔父さんに遊んでもらいました。 村のランドマークは寺であり、寺の並びに小さな集会場のような建物がありました。 火の見櫓(やぐら)もそこにあり、村の中心がそこであることを示していました。 未舗装で埃っぽいメインストリートは、自動車など滅多に通らず人と荷車(リヤカー)が主体でした。 幅も一車線余りで、自動車のすれ違いは不可能でした。 外灯もない道は、夜ともなれば真っ暗で目が慣れないと自分の手さえ見えません。 何か怖いものが出てきそうで、一緒にいた叔父や叔母の身体に抱きついたものでした。 「千と千尋の神隠し」に出てくる神々は、道祖神、神霊、精霊、妖怪といった類いの神々です。 あの時代、そういった神々がまだ道の外れや暗闇の中に見え隠れしていたような気がします。 そこに住む人の心の隅にも神々は潜んでいました。 今、寺の前の川はコンクリートの歩道となり、メインストリートは数倍に拡張され、ひっきりなしにクルマが行き来しています。 いたってありふれた農村は、いたってありふれた郊外に変わり、古い住民が新しい住民に換わりつつあります。 神々は目に見えませんから、神々の生態がどうなっているのかは分かりません。 でも、気配が薄れたのは確かです。 神々は、湯屋(油屋)のような温泉で疲れを癒しているのでしょうか。 それとも、人間に愛想を尽かして姿を消しつつあるのでしょうか。 「千と千尋の神隠し」は、千尋という一人の少女の冒険物語です。 冒頭、千尋一家はクルマで引越し先に向かいます。 お父さんが運転するのは、古い型のアウディ・クアトロ(セダンの四駆)。 新車だったら、普通のセダンが二台も買える高級車です。 リアシートには身の回りの品を入れた高級スーパー紀伊国屋の紙袋。 千尋の家庭環境が都市部の中流であることを示しています。 東京の武蔵野市あたりのマンション、借家に住んでいて、山梨の東部(東京寄り)に家を新築したようです。 具体的にいえば、四方津か猿橋あたり。 (映画のロケハンも猿橋近辺でおこなわれたそうです。 ) 規模の大きい新興住宅地がある所で、新しい住民の大半は都内への通勤者とその家族です。 この辺りは甲州街道の沿道で、一昔前は代々の住民しかいない山村でした。 千尋が迷い込んだ異界にふさわしい地域です。 近年宅地が造成され、住民の増加に伴って電車の便も良くなり、都内への通勤圏になりました。 埼玉、千葉で始まった首都圏の拡大の山梨版です。 千尋一家はいわば都市流民とでもいえます。 何不自由なく育った千尋は、両親というガードを外されて異界に迷い込みます。 その世界で成長、自立し、生きることの意味を体験するのが「千と千尋の神隠し」のお話です。 形式からいえば、昔からあるお伽話、説話、伝承などと同じです。 逆にいえば、宮崎駿はそういった物語世界を現代に設定したともいえます。 映画を観てまず驚くのが、背景画像の質感の高さです。 木、金属、陶器、ガラスなどで作られた内装や家具、置物の質感の表現力。 空や雲、川や海の水、花や草などの自然界の描写力にも目を奪われます。 そういった諸所に差し込む光が、背景を一層奥深いものにしています。 実写とは違う、描画(作画とCGの混合技法)の世界の美しさです。 映画のテーマに絡ませていえば、正に神々は細部に宿っています。 物語の設定では、潰れたとされるテーマパークが異界です。 このテーマパークが実際にあったのかどうかは、映画では明らかにされていません。 家族が迷い込んだ異界そのものが、テーマパークのようなものだった可能性もあります。 しかし、この潰れたとされるテーマパークが素晴らしい出来です。 明治、大正、昭和と中華的装飾がごたまぜになった世界は、通俗的で懐かしさに溢れています。 湯屋へのアプローチになっている食堂街のアジア的ともいえる渾沌。 湯屋の壮大で重厚だが、親しみのある建築。 テーマパークだとしたら、ディズニーランドの百倍も素敵です。 この映画は史上に残る空前のヒットを記録しました。 その大きな要因は、この街の舞台装置ではないでしょうか。 わたしも、湯屋のゴージャスな内装と雰囲気だけで、見料(レンタルビデオ代)のもとは取れたと思いましたから。 夕闇の訪れとともに店々に灯がともり、川の船着き場には神々を乗せた眩い燈の船が到着します。 湯屋にも灯がともり、開店準備におわれる従業員の喧騒が活気を生みだします。 食堂街と湯屋を結ぶ橋の上には大勢のお客様(神々)。 お祭りのような賑わいです。 湯屋は温泉宿ですが、トラッドな装飾のレジャー銭湯といった趣もあるようです。 湯屋や食堂街の賑わいは門前町のそれに似ています。 伊勢神宮や善光寺へのお参りは信仰と同時に娯楽(物見遊山)でもありました。 民衆の自由な旅行が禁じられていた時代、信仰にことわった観光旅行がお参りです。 門前の商店は飲食、宿泊、お土産等を提供する一大商業地で、毎日がお祭りのようでした。 (もっとも映画では、信仰の対象となるべき神々が逆にお客様ですが。 ) 現代においてそれにかわる存在は、それこそテーマパークかもしれません。 ディズニーランドに代表される大型アミューズメントパークです。 全国各地(アジア各地)から浦安めがけて連日大勢の人が押し掛けています。 入園料の他、人々はホテル、レストラン、ショップでもお金を費やします。 ここも、毎日がお祭りです。 遊園地と一緒にすると神社仏閣からお叱りを受けそうですが、やはり似ています。 過去や未来をテーマにしているところも、何となく。 大きな違いは、お参りが大人の娯楽だったの対して、テーマパークは子供が主賓です。 費用を負担するのが大人であっても、主役は子供。 時代が、いつの間にか大人中心の社会から子供中心の社会に変わったのです。 その象徴的存在が東京ディズニーランド。 「千と千尋の神隠し」の出資者のクレジットにはディズニーの名もあります。 偶然とはいえ、面白い事実です。 映画の観客が懐かしいと思うのは、舞台装置だけではありません。 そこに働く人々(実際は人間ではないのですが)の姿にも懐かしさを憶えます。 合理化、省力化され、マニュアルで速成されたサービスとは異るサービス形態がそこにはあります。 昔の大店を彷彿させる使用人の多さと、人と人とが擦れ合うような仕事振りと接客。 湯屋の賑わいは懐かしい労働の姿を彷彿させます。 引越先を目の前にして道に迷い、潰れたテーマパークに両親と千尋は入ってしまいます。 食堂街で神々の食べ物に手を出して豚にされてしまう両親。 異界に入り込んだ千尋は魔女の弟子である少年ハクに助けられ、湯屋で働きます。 異界で生きることを余儀なくされた千尋は、湯婆婆(魔女で湯屋の経営者)によって名前を千に変えられます。 千尋が迷い込んだ異界は、神々が疲れを癒す場所で人間が入り込むことは許されていません。 神々と魔女と、動物と人間を混ぜ合わせたような異形の者達の世界です。 人間が立ち入ることを禁止された世界、という認識はそれほど奇異なものではありません。 伽話、説話、伝承、あるいは神話の中で聞いた覚えがありますね。 世界を複合的にとらえ、その複合性の中で人間のポジションを考える立場です。 神は唯一絶対ではなく八百万 やおよろず)に宿るとする信仰は、一般的に原始宗教(アニミズム)と呼ばれています。 原始宗教は宗教と名付けられていますが、現今の宗教とは大きく違います。 わたしの感触では宗教というより、知恵と呼んだほうが相応しい気がします。 生きるための知恵、つまり生活全般のベースとなる思考です。 この映画のテーマを一言でいえば、「生きる力」です。 千尋という現代少女が「生きる力」を獲得する話であり、千尋に仮託された現代人が如何にしたら「生きる力」を回復するか、という話です。 その舞台が、異界であり、原始宗教の世界です。 宮崎駿はそこに「生きる力」の源があると考えているから、そこを舞台にしたのです。 今の時代、大人も子供も元気がありません。 頭上にどんよりとした雲が立ちこめているような閉塞感を感じます。 気晴らしに買物をしたり、旅行をすれば一時的に元気にはなりますが、長続きしません。 若い女性の海外旅行熱は1970年代からだと思いますから、かれこれ30年ほど続いています。 その旅行先が欧米の都市、観光地からアジアや辺境に少しずつ変化しています。 アジアではインドネシアのバリ、ヨーロッパではアイルランドに人気があります。 日本国内での旅行も沖縄や屋久島が注目を集めています。 いずれも神々や精霊が跋扈している土地です。 知合いの女性美術作家に数年前聞いた話です。 一年のうちの半年を日本で集中的に働いて、後の半年はバリで過ごすそうです。 向こうで元気をもらうというか、バリでは彼女本来の生活ができるそうです。 過重なストレスがなく、生きている実感がある生活という意味だと思います。 これに類した話を他の人からも聞いたことがあります。 このような旅の傾向、生活の指向と原始宗教を短絡に結びつける気はありませんが、無関係ではないと思っています。 それらの土地は生活のあり方が土着的で、近代的合理とはいささか反する生活慣習を持っています。 「千と千尋の神隠し」のヒットにも、同じことがいえます。 近代的合理とは違う映画のストーリーや舞台に、多くの人が惹きつけらました。 千尋は湯屋での下働きを介して異界の一員になり、そこに居場所を見つけます。 ハクとの関係を中心に、仕事仲間や魔女、神々との関わりも交えながらストーリーは進みます。 湯屋にやってくる神々は、ヒヨコの化物であったり、ナマハゲであったり、大根のような姿の神であったりと様々です。 風呂にも入れば、宴会もする神々です。 大体が、慰安にくる神々というシチュエーションが面白いですね。 神様の世界も、それはそれで苦労があるようです。 その神様にも、上等と下等があります。 強烈な匂いとヘドロのような風体で嫌われるオクサレ様。 千尋の活躍で、この神様の正体が位の高い川の主だったことが判明します。 川への不法投棄で神様は汚れに汚れてしまったのです。 体に突き刺さった杭を抜くと汚れがきれいに流され、残った砂金を置土産にして、神様は白い龍となって空に舞い上がります。 映画の主な登場人物は、千尋(千)、ハク、湯婆婆、銭婆(ぜにーば)、坊、釜爺、リン、カオナシ、それに両親と湯屋の使用人多数です。 映画では登場人物の背景はほとんど描かれていません。 その所為もあって、展開に疑問を持つと次から次に「何故?」が出てきます。 ハクが何故魔女の弟子になったのか、日本的な湯屋のペントハウスに何故西洋の魔女が住んでいるのか、双子の魔女は何故仲違いしたのか、等々。 監督が物語の整合性を途中で放棄したのか、それとももともとそんな考えを持っていなかったのか。 どっちの可能性も考えられますが、「何故?」の答えがなくても充分に面白いし、映画として完成されています。 考えてみれば、お伽話や神話には整合性といったものを無視して成立してるものが少なくありません。 近代的物語とは異質な物語世界だからです。 登場人物で特異なキャラクターはカオナシです。 カオナシも人間と同じように異界に立入りを禁止されている存在です。 千尋の親切心から湯屋に入り込んだカオナシは一騒動を起こします。 身体から出る金(きん)を餌に湯屋の使用人の歓心を買い、飽食のあげく使用人を食べてしまいます。 カオナシのメタファーは貨幣、金融といったものです。 (人間の欲望のメタファーでもあるでしょう。 ) 物々交換の便宜を図る単なるアイコンとして生れた貨幣が、今や人間の上に君臨しています。 フェッジファンドなどいう怪物が世界を席巻しているのはご存知ですね。 金が金を生む、こういう存在は神々の世界ではタブーです。 あらゆるものが連鎖して構成されているアニミズム的世界を断切る恐れがあるからです。 大暴れを千尋によって鎮められ、再び影が薄くなったカオナシは、千尋の旅にお供として付いて行きます。 湯屋の前の橋の下には鉄道が走っています。 千尋はその電車に乗って銭婆の家まで行き、魔女の印鑑を盗んだハクへの許しを乞うのです。 この電車の旅も美しシーンの一つ。 雨で軌道は水に浸かり、車外は海のようです。 先に乗っていた客は死者のように存在感がなく、何故か太ったアメリカの黒人です。 ブルースが全盛だったころの、昔の都市部の黒人のような出立ちをしています。 この辺りもまったく説明がないのですが、この鉄道が死の世界との連結路であることは想像できます。 複合的世界では生者と死者が同居し、生と死の間には時間の断絶もありません。 そういう世界で、千尋は働くことを通じて自立、成長していきます。 万物に宿る自然界の存在と関わり、その宇宙の中で「生きる力」を獲得していきます。 それが最も具体的に表れるのはハクとの交流です。 ハクは小白川(あるいは琥珀川?)という川の主です。 魔女に名を奪われてハクと呼ばれていますが、本当の名前はニギハヤミコハクヌシ。 ハクは霊的な人格で、それが神なのか精霊なのかは分かりません。 幼時に千尋が溺れた小白川は、その後マンションの建設で埋め立てられました。 ハクは川の主ですから、ハクと千尋の愛の物語は、自然と人間の愛の物語になります。 愛とは、相手を必要とするところから始まります。 物理的にも精神的にも、相手の存在が自分の生存に必要になった時、愛は生れます。 幼い千尋は溺れてハクに助けられます。 異界でも、千尋はハクの手助けで生き延びることができました。 そのお返しに、魔女の契約印を奪って呪いをかけられたハクを、今度は千尋が助けます。 このハクと千尋の関係を、川と人間の関係に拡大して考えてみます。 川と人間の関係、それはいつから始まったのでしょうか。 人間という存在が生れたとき、恐らくそのときから人間は川を必要としました。 水がなければ人間は生きていけないからです。 飲料水に、食物の洗浄に、身体を洗うために、洗濯に。 農耕が始まれば、植物の成育にも欠かせません。 家畜がいれば、家畜の飲用水も必要です。 時には、水遊びという娯楽も提供してくれます。 現代の人間が水道をライフラインと考えているように、川は人間の生命線でした。 しかし、川は幾分気紛れで、恵みをもたらすと同時に荒れ狂うときもあります。 大雨で氾濫し、洪水という災害をもたらします。 ハクやオクサレ様が白い龍であるのは、その徴(しるし)です。 蛇行する川は龍の長い胴体であり、龍が怒れば、その胴はとてつもない破壊力を発揮します。 川は、人間の力を遥かに超えたものです。 エネルギーとして、人知の及ばぬ存在が川です。 すべてを流してしまう巨大なエネルギーを持つ川。 エネルギーとは力をだす元(素)のことです。 人間のエネルギー源は食物と水ですね。 川には食料になる魚も棲んでいます。 その水や食物を、人間は川から授かります。 大抵の食物に含まれる水分も、もとをたどれば川に行き着くかもしれません。 人間にとって川は必要欠くべからず存在です。 当然、そういう存在は大切にします。 ぞんざいに扱えば、その報いは己に帰ってきますから。 一方、川自体もエネルギーが循環しています。 雨が川になって海に流れ、海の水が蒸発して雲を作り、雨を降らせます。 川に棲む魚や自生する植物も、川とエネルギーの交換をしています。 自然は自然で相互に作用しあってエネルギーを循環させています。 そのサイクルに人間を加えるにはどうしたら良いか。 あるいは、そのサイクルから外れないようにするにはどうしたら良いか。 そこに生れた知恵が、原始宗教です。 エネルギーという科学的用語を使って自己流に翻訳しましたが、原始宗教の始まりとはこのようなものではないでしょうか。 人知を超えた自然のエネルギーに頼りながら、その凶暴さを恐れる人間。 自然のエネルギーの循環に加わることは、人間の知恵であり哲学です。 そのためには、人間も川のエネルギーの循環を助けます。 川のエネルギーが順調に流れるように配慮するのです。 広い意味での治水です。 川も人と同じように病む(エネルギーの断絶)ことがあります。 流れが止まって、澱みになってしまったときです。 川が澱むとエネルギーがそこで途絶え、人間には伝わりません。 人間も自然の一部と考えたとき、そこには差異がありません。 人間が人格を持っているなら、自然にも人格があるはずです。 人間に恵みをもたらし、恐ろしい力ももっている自然存在は、人間にとって高位の人格です。 翻訳すれば、高位のエネルギーになります。 そして、人間自身の内部でもエネルギーの循環はおこなわれています。 その循環によって人間は生きています。 人間の外側と内側でエネルギーの循環がおこなわれ、それも繋がっています。 「千と千尋の神隠し」の舞台は異界です。 異界に迷い込んだ千尋は、そこで「生きる力」を獲得します。 あるいは、もともともっていた「生きる力」に目覚めます。 「生きる力」とは、文字通りエネルギーですね。 エネルギーは循環し、連続性の過程で得られます。 映画は千尋が両親を人間に戻し、元の世界に帰っていくところで終ります。 異界と現実世界の連続性、それもこの映画のメッセージです。 過分に単純化した書き方ですが、「千と千尋の神隠し」と原始宗教に対するわたしの考察です。 千尋とハクの愛の物語は、人間と自然の愛の物語です。 愛というものは、見方によってはエネルギーの交換ですね。 与えて、与えられる、エネルギーの交換です。 今、わたし達は水を水道によって享受しています。 蛇口を捻れば水が出てくる水道は便利です。 水道は川から引かれているのですが、そこには断絶があります。 何故なら、今やわたし達には水道管の向こうにある川のエネルギーを想像する力がないからです。 わたしが幼児のときに落ちた用水路。 その小さな川は集落の大切な生活用水だったそうです。 飲料にこそしませんでしたが、米を研いだり、野菜を洗ったり、洗濯をしたそうです。 母が結婚する前までの話です。 集落の一軒が井戸掘りに成功して、その水が集落の生活用水に換わりました。 その前後に、川は汚れがひどくなって使えなくなりました。 上流に市立病院ができ、そこからの排水が川を汚したのです。 この時から、集落と川のエネルギーの交換はなくなり、人は川に住んでいた多くの生物とも断切られました。 コンクリートの歩道の下で、今も流れているであろう小さな川。 あの川の主はどこにいるのでしょうか。 原始宗教の資料調べでWWWを散策していたら、のテキストに面白いこと が載っていました。 アニミズムとアニメーションの語源は同じそうです。 animateは「命を吹き込む」という意があるそうです。 動かない静止画を動かす、つまり命を吹き込むのがアニメーションです。 これは偶然ではなくて、宮崎駿監督は確信犯のような気がします。 <第五十八回終わり>.

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このコーナーでは、「千尋」の世界観をテーマごとに読み解いていきます。 冒険物語といえば、武器を振り回したり超能力の力比べをしたりするイメージが強いが、「千尋」にはそのようなシーンは登場しない。 また、正邪の対決が主題という訳でもないから、誰かが絶対的な善人として描かれることがなければ誰かが絶対的な悪人として描かれることもない。 まして、正義の味方が武器や超能力を使って悪者を倒すような物語ではないという。 舞台は、日本に棲んでいる様々な神様がやってくる不思議な町。 主人公の千尋は10歳の普通の女の子で、特別な能力がある訳もなければ才能に恵まれている訳でもない。 千尋は、ある日突然不思議な町に投げ込まれ、湯屋という神様のためのお風呂屋さんで働き始める。 そこで修業し、友愛と献身を学び、積み重なっていく経験の全てが、千尋にとって冒険そのものであり、その中から「生きる力」が引き出されていく。 この「生きる力」というものは、人間なら誰でも潜在的に持っている力であり、 普通の女の子である千尋が自ら「生きる力」を引き出していくからこそ、普通の10歳の女の子のための冒険物語になり得るのであるという。 世の中というものは善人も悪人もみな混じり合って存在しており、これを峻別することは出来ない、と宮崎氏は指摘する。 善人だけの社会とか、悪人だけの社会というのは存在しない。 もちろん、一人の人間の中にも善人的なるものと悪人的なるものが共存しており、完全な善人とか完全な悪人というふうな割り切り方は出来ない。 その代表ともいうべき存在が湯婆婆という湯屋を支配する魔女であり、一見悪人のように見えるが悪人と言い切れる訳ではなく、厳格なように見えて甘い一面も垣間見せる。 同じように、湯屋で働く者たちの誰が善人であり誰が悪人であるというふうな分け方もしない。 「今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに浸食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すこと」がこの映画の主題であるという。 すなわち、 湯屋はある意味において「社会の縮図」であり、湯婆婆は「人間というものの見本」なのである。 さて、現代日本の子ども達は「生きる力」が衰えているのではないか、と宮崎監督は考えている。 子供だけで自由に振る舞える空間が小さくなり、大人達によって囲われ、安全に守られ、危険から遠ざけられていると、生きることがうすぼんやりにしか感じられなくなって、「生きる力」そのものが弱くなってしまうと言うのである。 千尋は、まさにそのような子供の象徴として登場する。 だが、子供というものは、本来「生きる力」の固まりである。 一家で外国に引っ越したときに現地の言葉を最も早く習得するのは常に子供であることが示すように、子供はどんな環境にでも速やかに適応できる柔軟さを持っている。 もちろん、千尋もそういう能力を持っているはずなのだが、今の日本の豊かすぎる環境の中では「生きる力」を発揮する機会もなく、退化するに任されている。 けれども、もし千尋のような子供が、突然働かなければ生きていけないような環境に放り込まれたらどうなるだろうか、と宮崎監督は考えた。 退化した「生きる力」は再び甦ることはないのだろうか? 千尋は、突然突然不思議な街に放り出され、両親がブタにされてしまったので自分ひとりの力で生きていくしかなくなる。 この世界で生きていくことは、すなわち働くことである。 千尋は湯屋で働き場所を得て懸命に働いていく。 ある時は感性を研ぎ澄ませ、ある時は全身を動員して働く。 五感を駆使し、知恵をひねり出す。 そして目覚しい判断力と行動力が発揮され問題を解決していく。 このように、多くの苦労や困難を盛り越えていくうちに、本人も気づかなかった忍耐力が湧き出して、千尋の中で眠っていた「生きる力」が呼び覚まされていく。 宮崎監督は、その過程を余すことなく描ききることで、子どもが本来持っている「生きる力」の可能性を表現しようとしたのかもしれない。 さて、「言葉」というのもこの作品における重要なキーワードの一つである。 千尋の迷い込んだ世界では、「言葉」を発することはとり返しのつかない重さを持っているという。 それは、あたかも言葉の重みがどんどん失われていく現実の世界の裏返しのようである。 力のない空虚な言葉が無意味にあふれているだけの世の中は、子どもの未来に良い影響を与えない。 だから、宮崎監督は「言葉は力であることは今も真実である」と考え、作品を通じて「言葉」の持つ重みについても深く訴えかけようとする。 「千尋」に登場する神様は宮崎監督の創作ではあるが、それらは日本の伝統的文化が色濃く反映されている。 国際化時代が叫ばれて久しく、外国の文化や伝統を学ぶ必要性が叫ばれている。 だが、本当に大事なことは、まず日本の文化や伝統を学ぶことである。 自国の文化や伝統を理解せずして、外国の文化や伝統を理解することなど出来ない。 このことを、宮崎監督は「ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう」と表現する。 よって立つ場所を持たなければ、現在の自分自身はもちろん、将来像も描けないからだ。 まず自分の足元を固めること。 それなくして自分が将来に何をしたいかという希望も見えてこないのだ。 10歳の女の子の「生きる力」を信じ、10歳の女の子が「本当の自分の願いに出会っていく」ことを信じる。 宮崎監督は、そのサポートが出来るような作品を作ろうとしたのかもしれない。 そこは、人間社会のすぐ隣にありながら地図に載っている訳でもなく、亜空間というべき別世界である。 その世界へ行く方法は全くのナゾであり、自由に往来することもままならない。 そもそも、その世界の存在を知っている人もほとんどいない。 千尋一家は、なぜ「不思議の町」に迷い込んでしまったのだろうか? その理由について、設定資料等で詳しく説明されているのでなければ推定するほかない。 ここでは、説明がないのを逆手にとって大胆な仮説を考えてみよう。 結論を先に書けば、 千尋一家全員の投げやりな態度が「不思議の町」への扉を開いてしまったのではないかと想像される。 「投げやりな態度」というキーワードは、なぜ千尋の両親がお店の食事を無断で食べ始めたかについて考えていくことから浮かび上がらせることが出来る。 不思議の街に迷い込んだ千尋の両親は、もの珍しさにつられて足を踏み入れていった。 嫌がる千尋が「ねえ、戻ろうよ!」と叫んでも、全くお構いなしであった。 そして、無人の街を探検した挙げ句、店頭に置かれていた食事に手をつけ、街の掟を破ったかどでブタの姿にさせられてしまう。 千尋の両親が街へ入り込んでいった理由については、「両親は高度成長期に育ったから好奇心が旺盛であり、何事に対しても貪欲だから。 」というふうな説明がされている。 まあ、その説明は分からないでもない。 しかし、お店に置かれている食事を断りなく勝手に食べ始めた行動まで「好奇心が旺盛」という言葉で説明するには、いくら何でも無理がある。 もし、そのような説明で片づけられてしまったとしたら、「高度成長期に育った世代は人様の食べ物でも平気で手をつける非常識な世代である」ということになってしまい、世の中の30代はたちまち怒り出すだろう。 では、なぜ千尋の両親は無断でお店の食事に手をつけてしまったのだろうか? 想像の域は出ないが、両親はリストラによる引っ越しで投げやりに近い状態になっていたから、後先考えずに食事をむさぼり始めたのではないだろうか。 別に投げやりの原因がリストラでなくても良いのだが、とにかく何らかの理由で投げやり状態になっていなければ、お店の食べ物を勝手にむさぼる非常識な行動に出る理由を合理的に説明することは難しい。 もし、あとで店員に見つかって怒られたとしても、自分はサイフもカードも持っているんだから怖いものなどないぞ、という訳である。 (実際には、そこはルールの違う世界であって、勝手に神様の食べ物を食べた罰としてブタにさせられてしまうのだが・・・。 ) 父・明夫の顔つきは見るからに体育会系で、典型的な上昇志向・中央志向の相が出ており、どこからどう見ても田舎で気楽な生活を楽しみたいというような顔つきではない。 おそらく、大学ではラグビー部あたりにいたのだろう。 そして、体育会系の人脈を頼りに一流企業へ就職し、バリバリの営業マンとして働いていたのかもしれない。 一方、母・悠子は知的でクールな女性であり、一方で打算づくで計算高い相が出ている。 結婚相手を選ぶ時も、体格が良く、羽振りも良くて、なおかつ将来出世しそうな勢いのある明夫を選んだのものと思われる。 悠子の結婚年齢は平均初婚年齢よりも若いが、これは早くから明夫に目を付けてキープしていたからであろう。 当然、将来は重役夫人あたりに収まって、リッチなアーバンライフをエンジョイしようと目論んでいたのかもしれない。 だとすれば、田舎に引っ越して都落ちしてしまうことは、夫婦にとって面白かろうはずはない。 まして、リストラに遭った挙げ句の都落ちならなおさらである。 悠子は知的でクールということになっているので、好奇心から「不思議の町」に入り込むことはあったとしても、明夫が勝手に食事に手を着けようとすれば「勝手に食べたりしたらダメよ」と言って制止する分別くらいはあるはずだ。 ところが、制止するどころか明夫と一緒になってむさぼり始めた。 やはり、悠子も投げやり状態であり、二人とも後先も何も考えず、もうどうなってのいいという位にまで投げやり状態になっていたのではないだろうか。 引っ越しの日、明夫は楽天的な性格ゆえに表情こそ明るくハンドルを握っていたが、心の中では深い挫折感に苛まれていたのかもしれない。 「俺はもう出世街道を外れてしまったよ。 トホホ。 」などと。 悠子の方も「まさか、この人がリストラされてしまうなんて思いもよらなかったわ。 本当にこの人を選んで良かったのかしら。 おかげで私の人生もメチャメチャだわ。 」などと考えながら外の景色を眺めていたのかもしれない。 千尋は千尋で、引っ越しそのものがかったるい。 これまで苦労して作り上げてきた友達関係がチャラになってしまったので、また一から友達を作らねばならない気苦労を想像してか、鬱な様子が表情にまで出ていた。 このように、 あくまでも想像ではあるが、一家全員が一致して人生を投げやりに感じた瞬間、その「気」が空間を歪ませ、「不思議の町」へ迷い込む扉が開かれてしまったのかもしれない。 「不思議の町」への扉が開かれるのは、投げやりになってしまった人の「気」によるものなのかどうかは分からない。 だが、「不思議の町」は、投げやりになってしまった人々に「生きる力」を呼び覚ますためのチャンスを与えてくれる場所という見方も出来る。 千尋は「不思議の町」で仕事を得て懸命に働き、「生きる力」を回復していった。 しかし、そこで投げやりになったままでは仕事を得ることもないから消滅させられてしまうか動物の姿に変えさせられてしまうしかない。 このような見方が成り立つとすれば、 「不思議の町」とは、人間の「生きる力」を吸い取りもすれば呼び覚ましもする、「もののけ姫」のシシ神のような存在であるかもしれない。 もっとも、ここで記した説はあくまでも一つの見方を提示しただけに過ぎず、どのような原因・タイミングで「不思議の町」に入っていったかのかのパターンは、数多く考えられると思われる。 なぜなら、そこは日本の各地に棲んでいる八百万の神様の世界であり、特に湯屋は神様の疲れをいやす世界であるからだ。 だが、もしそこが本当に人間の立ち入ってはいけない世界であれば、人間は入った瞬間に消されるか動物にされてしまうはずである。 だが、人間もそこで仕事を持てば生きていくことが出来る。 湯婆婆の下においては、名前を奪われること=人間界の者ではなくなることも条件に入っているようであるが、だからといって心の中まで支配されてしまう訳でもない。 つまり、「不思議の町」にあっても、人間が人間として存在することが許されているのだ。 このことから、「不思議の町」は少なくとも人間や人間の世界と全く無縁の世界ではないであろうことが分かる。 そればかりか、湯婆婆が人間のある部分を代表しているように、「不思議の町」は人間の世界の鏡のような存在であるといえると考えられなくもない。 結局のところ、「不思議の町」とはどのような意味をもった存在なのであろうか? この部分についても、設定資料等で詳しく説明されている訳ではないので推定するほかない。 またしても仮説の提示にとどまるのであるが、ひとことで言えば 「不思議の町」は人間の世界と神々の世界とのズレによって生み出され、発展してきたのではないだろうか。 人間の世界と神々の世界のズレがどのように発生し拡大していったかを考えると、下の図のような模式図を描くことが出来ると思う。 古来より、日本に住む人々は自然界に存在するありとあらゆるものには神が宿ると考え、八百万の神の存在を信じていた。 自然の要素は、すなわち神の分身であるとも考えてきた。 日本人なら、あの山の中に山の神が鎮っているのだと言われれば、ほとんど抵抗なく同意することが出来る。 この森の中には森の神が鎮っているのだと言われても、あるいはこの樹木の中には樹の神が鎮っているのだと言われても同様である。 日本人は、自然の恵みを神の恵みと考え、八百万の神々と共存しながら暮らしていた。 私達にとって、神とはかくも身近な存在であった。 1 つまり、日本とは人間が住む世界と神々が棲む世界が共有されている国であったと言うことが出来る。 伝統的な日本の社会において、人間の世界と神々の世界は対立するものでなければ並列するものでもなく、そのまま重なり合って渾然一体となっていた。 山には山の神、森には森の神が宿り、人々は神々の恵みに感謝しながら生活していた。 神々は、人々の信仰によって支えられていたと言うことも出来る。 2 さて、 日本の近代化が始まると、人間の世界と神々の世界との重なりにズレが生じ始めた。 すなわち、人間だけの世界の出現である。 それは、神様の入れない領域の誕生を意味するものであった。 近代文明は、あらゆるものに神々が宿るという信仰を衰えさせ、したがって神々の宿らないモノを生み出していったからである。 神々の宿れない世界は、神々にとって仕事がないことである。 だから、仮に神様が立ち入ったとしても、仕事がないために消滅するしかないであろう。 同時に、ズレの反対側には人間が立ち入れない神々だけの世界というものも出現することになった。 一方に神々を必要としない領域が生まれたのであるから、もう一方に人間を必要としない領域が生まれるのは当然の帰結である。 不思議な町や湯屋は、このようにして人間の立ち入れない世界となっていった。 仮に人間が立ち入ったとしても、そこで仕事を得ることがなければ消滅するかブタの姿に変えられてしまうしかないであろう。 近代化の進行は、同時に西欧の文化や技術を輸入することでもあり、人間の世界にも神々の世界にも影響を及ぼすことになった。 西欧の神様や魔術・魔法も伝えられ、日本の神々と同居するようになっていった。 近代化がさらに進んでズレが拡大すると、人間だけの世界=神様の入る余地のない領域がますます発達することとなった。 昔の人々は、かまどには神様が宿っていると考えたものだが、現在、マイコン内蔵の電子炊飯器に神様が宿っていると考える人はいない。 同じように、パソコンに神様が宿っていると信じる人はほとんどいなし、携帯電話に神様が宿っていると信じる人もほとんどいない。 第一、いまどきのパソコンや携帯電話は使い捨ての消耗品同然であり、神様を宿らせる余裕さえない。 人間だけの世界の拡大と同時に、 バランスをとるために神々だけの世界も発達することになった。 「不思議の町」も軒先を連ねて市街地が発達し、湯屋も要塞のごとく大規模化していたが、人間世界の発達と表裏一体をなすものだったのであろう。 物語の後半に出てきた銭婆(ぜにーば)の家は、日本古来というよりも西欧の魔女の家という造りであったが、これは西欧の影響を受けた結果であろうと思われる。 日本はもともと多神教の国であり、西欧の神様を受け入れるのは容易であったし、魔術や魔法も抵抗なく受け入れられている。 よて、神々の世界における西欧文化の同居も問題ないのであろう。 もしかしたら、湯婆婆や銭婆は西欧の出身で、日本に居着いているのかもしれない。 そして、日本的な領域と西欧的な領域の間は、鉄道で結ばれているという訳である。 さて、千尋が迷い込んだ「不思議の町」は、本来は人間の入れない領域にあった。 だが、そこで仕事を得ることが出来れば人間として存在することが出来た。 ということは、これと全く逆のことも起きているだろう。 本来神様の立ち入れない領域にあっても、例えば「パソコンの神様」「携帯電話の神様」を信じる人がいれば、すなわち"仕事"を得ることが出来た神様は、そこで神様として存在することが出来るに違いない。 ---------- IT革命が進行し、高度情報化社会が進展していけばズレがさらに拡大し、「不思議の町」も発展を続けていくかもしれない。 だが、このまま永久に発展し続けていくのだろうか?究極的には、人間の世界と神々の世界は完全に分離してしまうのだろうか? しかし、どんなに近代化が進んでも、日本に住む人々の心の中から神々が完全にいなくなってしまうことはないだろうと思われる。 人間の世界と神々の世界が完全に分離してしまうこともないだろう。 なにしろ、この国では原子力発電所やロケットの発射場など、およそ神様とは縁のない施設を作る時でさえ、必ず地鎮祭を催してその土地に棲んでおられる神様を祀る習慣を大切に守っているからだ。 インターネット上でもおみくじや占いが大人気を博しているのも、新たなる神様の"働き場所"が生まれつつあることを予感させる。 将来は、パソコンや携帯電話にだって神様が宿っていると考える人が増えていくかもしれない。 このように考えてみると、 日本は依然として人間と神々が共存しており、将来もそうあり続けるのではないだろうか。 やはり、日本は八百万の神々とともにある国なのだ。 1 例えば、その年に収穫されたコメを神に捧げることいよって自然の恵みを感謝する新嘗祭は、人間が神とともにコメを親しく食する祭儀でもある。 これは、私達が神と共に暮らしていることを確認する祭儀でもあった。 2 神々は人々の信仰によって支えられているのであるから、人が信仰しなくなった神は死に絶える。 「もののけ姫」におけるシシ神も、人々がそれを信じていればこそ生きることの出来た神であった。 人々がシシ神を信仰しなくなれば、わざわざ神殺しに行かなくてもシシ神はその時点で実質的に死んだであろう。 同じように、人々が信仰しなくなったイロリの神、カマドの神、井戸の神も現在では絶滅同然になっている。 参考文献 高橋勝『子どもの自己形成空間』川島書店,1992 厚生省大臣官房統計情報部編『人口動態統計』厚生省,1992 深谷昌志『無気力化する子どもたち』日本放送出版協会,1990 恩賜財団母子愛育会編『日本子ども資料年鑑』中央出版,1998 朝日新聞連載コラム「10年ほど生きてます:2000年のコドモたち」朝日新聞,2000.

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『千と千尋の神隠し』の8つの謎とは?知れば知るほど面白い!

八百万の神 千と千尋

神々の研究 iの研究 第五十八回 <神々>の研究 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を観ていたら、遠い昔のことを思い出してしまいました。 わたしが幼稚園に入る前ですから、四才か五才のころの出来事です。 わたしの母の実家は山梨県甲府市の周縁の村です。 村にはメインストリートがあって、実家はその道から一軒奥に入ったところにありました。 メインストリートといっても商店が並んでいるわけではありません。 ほとんどが農家で、それ以外には寺と小さな雑貨屋が一軒あるだけです。 実家から道に出ると真ん前が寺で、道と寺の間に小さな川が流れていました。 幅が一メートル余りの用水路のような川です。 その川に幼児のわたしは落ちたのです。 落ちて、額に傷をつくりました。 その傷は中学生になるまでは確かにあって、落ちたときの微かな記憶もありました。 わたしが落ちたときの事を母が度々話題にして、その都度、傷の由来とその時の記憶が蘇ったものでした。 傷が消えたころからその話も消えて、わたしも川に落ちたことを忘れてしまいました。 映画の終盤、幼い千尋が川に落ちて川の主である少年ハクに助けられた事実が明かされます。 千尋が思い出せなかったハクとの出会いです。 千尋は靴を拾おうとして川に落ち、溺れたのでした。 溺れたくらいですから、わたしの落ちた用水路とは川の規模が違います。 共通の体験とは言い難いのですが、映画の世界とあの時代の農村が重なって、わたしの記憶の底を掻き回したのでした。 あの時代、というのは1950年代のことです。 母の実家はいたってありふれた日本の農村にありました。 豪農でもなく貧農でもなく、そこそこの農家の集落が母の実家です。 わたしが住んでいたのは地方都市である甲府の街中。 そこから両親に連れられて、小学生になってからは一人で、遊びに行きました。 徒歩でも行ったし、自転車でも行ったし、バスでも行きました。 甲府と村の境はJRのローカル線の踏み切りで、そこから風景と空気が変わったのを良く憶えています。 その踏み切りを渡ると、街の匂いが消えて幾分濃厚な村の匂いが漂ってきました。 家の佇まいにも、人の発する気配にも、その匂いに違いがありました。 前触れもなく一人で現われたわたしを、祖父や祖母や叔父、叔母は無視するでもなく歓待するでもなく、遇してくれました。 わたしは勝手に一人で遊んで、みんなと食事をして、夜は歳が近かった叔父さんに遊んでもらいました。 村のランドマークは寺であり、寺の並びに小さな集会場のような建物がありました。 火の見櫓(やぐら)もそこにあり、村の中心がそこであることを示していました。 未舗装で埃っぽいメインストリートは、自動車など滅多に通らず人と荷車(リヤカー)が主体でした。 幅も一車線余りで、自動車のすれ違いは不可能でした。 外灯もない道は、夜ともなれば真っ暗で目が慣れないと自分の手さえ見えません。 何か怖いものが出てきそうで、一緒にいた叔父や叔母の身体に抱きついたものでした。 「千と千尋の神隠し」に出てくる神々は、道祖神、神霊、精霊、妖怪といった類いの神々です。 あの時代、そういった神々がまだ道の外れや暗闇の中に見え隠れしていたような気がします。 そこに住む人の心の隅にも神々は潜んでいました。 今、寺の前の川はコンクリートの歩道となり、メインストリートは数倍に拡張され、ひっきりなしにクルマが行き来しています。 いたってありふれた農村は、いたってありふれた郊外に変わり、古い住民が新しい住民に換わりつつあります。 神々は目に見えませんから、神々の生態がどうなっているのかは分かりません。 でも、気配が薄れたのは確かです。 神々は、湯屋(油屋)のような温泉で疲れを癒しているのでしょうか。 それとも、人間に愛想を尽かして姿を消しつつあるのでしょうか。 「千と千尋の神隠し」は、千尋という一人の少女の冒険物語です。 冒頭、千尋一家はクルマで引越し先に向かいます。 お父さんが運転するのは、古い型のアウディ・クアトロ(セダンの四駆)。 新車だったら、普通のセダンが二台も買える高級車です。 リアシートには身の回りの品を入れた高級スーパー紀伊国屋の紙袋。 千尋の家庭環境が都市部の中流であることを示しています。 東京の武蔵野市あたりのマンション、借家に住んでいて、山梨の東部(東京寄り)に家を新築したようです。 具体的にいえば、四方津か猿橋あたり。 (映画のロケハンも猿橋近辺でおこなわれたそうです。 ) 規模の大きい新興住宅地がある所で、新しい住民の大半は都内への通勤者とその家族です。 この辺りは甲州街道の沿道で、一昔前は代々の住民しかいない山村でした。 千尋が迷い込んだ異界にふさわしい地域です。 近年宅地が造成され、住民の増加に伴って電車の便も良くなり、都内への通勤圏になりました。 埼玉、千葉で始まった首都圏の拡大の山梨版です。 千尋一家はいわば都市流民とでもいえます。 何不自由なく育った千尋は、両親というガードを外されて異界に迷い込みます。 その世界で成長、自立し、生きることの意味を体験するのが「千と千尋の神隠し」のお話です。 形式からいえば、昔からあるお伽話、説話、伝承などと同じです。 逆にいえば、宮崎駿はそういった物語世界を現代に設定したともいえます。 映画を観てまず驚くのが、背景画像の質感の高さです。 木、金属、陶器、ガラスなどで作られた内装や家具、置物の質感の表現力。 空や雲、川や海の水、花や草などの自然界の描写力にも目を奪われます。 そういった諸所に差し込む光が、背景を一層奥深いものにしています。 実写とは違う、描画(作画とCGの混合技法)の世界の美しさです。 映画のテーマに絡ませていえば、正に神々は細部に宿っています。 物語の設定では、潰れたとされるテーマパークが異界です。 このテーマパークが実際にあったのかどうかは、映画では明らかにされていません。 家族が迷い込んだ異界そのものが、テーマパークのようなものだった可能性もあります。 しかし、この潰れたとされるテーマパークが素晴らしい出来です。 明治、大正、昭和と中華的装飾がごたまぜになった世界は、通俗的で懐かしさに溢れています。 湯屋へのアプローチになっている食堂街のアジア的ともいえる渾沌。 湯屋の壮大で重厚だが、親しみのある建築。 テーマパークだとしたら、ディズニーランドの百倍も素敵です。 この映画は史上に残る空前のヒットを記録しました。 その大きな要因は、この街の舞台装置ではないでしょうか。 わたしも、湯屋のゴージャスな内装と雰囲気だけで、見料(レンタルビデオ代)のもとは取れたと思いましたから。 夕闇の訪れとともに店々に灯がともり、川の船着き場には神々を乗せた眩い燈の船が到着します。 湯屋にも灯がともり、開店準備におわれる従業員の喧騒が活気を生みだします。 食堂街と湯屋を結ぶ橋の上には大勢のお客様(神々)。 お祭りのような賑わいです。 湯屋は温泉宿ですが、トラッドな装飾のレジャー銭湯といった趣もあるようです。 湯屋や食堂街の賑わいは門前町のそれに似ています。 伊勢神宮や善光寺へのお参りは信仰と同時に娯楽(物見遊山)でもありました。 民衆の自由な旅行が禁じられていた時代、信仰にことわった観光旅行がお参りです。 門前の商店は飲食、宿泊、お土産等を提供する一大商業地で、毎日がお祭りのようでした。 (もっとも映画では、信仰の対象となるべき神々が逆にお客様ですが。 ) 現代においてそれにかわる存在は、それこそテーマパークかもしれません。 ディズニーランドに代表される大型アミューズメントパークです。 全国各地(アジア各地)から浦安めがけて連日大勢の人が押し掛けています。 入園料の他、人々はホテル、レストラン、ショップでもお金を費やします。 ここも、毎日がお祭りです。 遊園地と一緒にすると神社仏閣からお叱りを受けそうですが、やはり似ています。 過去や未来をテーマにしているところも、何となく。 大きな違いは、お参りが大人の娯楽だったの対して、テーマパークは子供が主賓です。 費用を負担するのが大人であっても、主役は子供。 時代が、いつの間にか大人中心の社会から子供中心の社会に変わったのです。 その象徴的存在が東京ディズニーランド。 「千と千尋の神隠し」の出資者のクレジットにはディズニーの名もあります。 偶然とはいえ、面白い事実です。 映画の観客が懐かしいと思うのは、舞台装置だけではありません。 そこに働く人々(実際は人間ではないのですが)の姿にも懐かしさを憶えます。 合理化、省力化され、マニュアルで速成されたサービスとは異るサービス形態がそこにはあります。 昔の大店を彷彿させる使用人の多さと、人と人とが擦れ合うような仕事振りと接客。 湯屋の賑わいは懐かしい労働の姿を彷彿させます。 引越先を目の前にして道に迷い、潰れたテーマパークに両親と千尋は入ってしまいます。 食堂街で神々の食べ物に手を出して豚にされてしまう両親。 異界に入り込んだ千尋は魔女の弟子である少年ハクに助けられ、湯屋で働きます。 異界で生きることを余儀なくされた千尋は、湯婆婆(魔女で湯屋の経営者)によって名前を千に変えられます。 千尋が迷い込んだ異界は、神々が疲れを癒す場所で人間が入り込むことは許されていません。 神々と魔女と、動物と人間を混ぜ合わせたような異形の者達の世界です。 人間が立ち入ることを禁止された世界、という認識はそれほど奇異なものではありません。 伽話、説話、伝承、あるいは神話の中で聞いた覚えがありますね。 世界を複合的にとらえ、その複合性の中で人間のポジションを考える立場です。 神は唯一絶対ではなく八百万 やおよろず)に宿るとする信仰は、一般的に原始宗教(アニミズム)と呼ばれています。 原始宗教は宗教と名付けられていますが、現今の宗教とは大きく違います。 わたしの感触では宗教というより、知恵と呼んだほうが相応しい気がします。 生きるための知恵、つまり生活全般のベースとなる思考です。 この映画のテーマを一言でいえば、「生きる力」です。 千尋という現代少女が「生きる力」を獲得する話であり、千尋に仮託された現代人が如何にしたら「生きる力」を回復するか、という話です。 その舞台が、異界であり、原始宗教の世界です。 宮崎駿はそこに「生きる力」の源があると考えているから、そこを舞台にしたのです。 今の時代、大人も子供も元気がありません。 頭上にどんよりとした雲が立ちこめているような閉塞感を感じます。 気晴らしに買物をしたり、旅行をすれば一時的に元気にはなりますが、長続きしません。 若い女性の海外旅行熱は1970年代からだと思いますから、かれこれ30年ほど続いています。 その旅行先が欧米の都市、観光地からアジアや辺境に少しずつ変化しています。 アジアではインドネシアのバリ、ヨーロッパではアイルランドに人気があります。 日本国内での旅行も沖縄や屋久島が注目を集めています。 いずれも神々や精霊が跋扈している土地です。 知合いの女性美術作家に数年前聞いた話です。 一年のうちの半年を日本で集中的に働いて、後の半年はバリで過ごすそうです。 向こうで元気をもらうというか、バリでは彼女本来の生活ができるそうです。 過重なストレスがなく、生きている実感がある生活という意味だと思います。 これに類した話を他の人からも聞いたことがあります。 このような旅の傾向、生活の指向と原始宗教を短絡に結びつける気はありませんが、無関係ではないと思っています。 それらの土地は生活のあり方が土着的で、近代的合理とはいささか反する生活慣習を持っています。 「千と千尋の神隠し」のヒットにも、同じことがいえます。 近代的合理とは違う映画のストーリーや舞台に、多くの人が惹きつけらました。 千尋は湯屋での下働きを介して異界の一員になり、そこに居場所を見つけます。 ハクとの関係を中心に、仕事仲間や魔女、神々との関わりも交えながらストーリーは進みます。 湯屋にやってくる神々は、ヒヨコの化物であったり、ナマハゲであったり、大根のような姿の神であったりと様々です。 風呂にも入れば、宴会もする神々です。 大体が、慰安にくる神々というシチュエーションが面白いですね。 神様の世界も、それはそれで苦労があるようです。 その神様にも、上等と下等があります。 強烈な匂いとヘドロのような風体で嫌われるオクサレ様。 千尋の活躍で、この神様の正体が位の高い川の主だったことが判明します。 川への不法投棄で神様は汚れに汚れてしまったのです。 体に突き刺さった杭を抜くと汚れがきれいに流され、残った砂金を置土産にして、神様は白い龍となって空に舞い上がります。 映画の主な登場人物は、千尋(千)、ハク、湯婆婆、銭婆(ぜにーば)、坊、釜爺、リン、カオナシ、それに両親と湯屋の使用人多数です。 映画では登場人物の背景はほとんど描かれていません。 その所為もあって、展開に疑問を持つと次から次に「何故?」が出てきます。 ハクが何故魔女の弟子になったのか、日本的な湯屋のペントハウスに何故西洋の魔女が住んでいるのか、双子の魔女は何故仲違いしたのか、等々。 監督が物語の整合性を途中で放棄したのか、それとももともとそんな考えを持っていなかったのか。 どっちの可能性も考えられますが、「何故?」の答えがなくても充分に面白いし、映画として完成されています。 考えてみれば、お伽話や神話には整合性といったものを無視して成立してるものが少なくありません。 近代的物語とは異質な物語世界だからです。 登場人物で特異なキャラクターはカオナシです。 カオナシも人間と同じように異界に立入りを禁止されている存在です。 千尋の親切心から湯屋に入り込んだカオナシは一騒動を起こします。 身体から出る金(きん)を餌に湯屋の使用人の歓心を買い、飽食のあげく使用人を食べてしまいます。 カオナシのメタファーは貨幣、金融といったものです。 (人間の欲望のメタファーでもあるでしょう。 ) 物々交換の便宜を図る単なるアイコンとして生れた貨幣が、今や人間の上に君臨しています。 フェッジファンドなどいう怪物が世界を席巻しているのはご存知ですね。 金が金を生む、こういう存在は神々の世界ではタブーです。 あらゆるものが連鎖して構成されているアニミズム的世界を断切る恐れがあるからです。 大暴れを千尋によって鎮められ、再び影が薄くなったカオナシは、千尋の旅にお供として付いて行きます。 湯屋の前の橋の下には鉄道が走っています。 千尋はその電車に乗って銭婆の家まで行き、魔女の印鑑を盗んだハクへの許しを乞うのです。 この電車の旅も美しシーンの一つ。 雨で軌道は水に浸かり、車外は海のようです。 先に乗っていた客は死者のように存在感がなく、何故か太ったアメリカの黒人です。 ブルースが全盛だったころの、昔の都市部の黒人のような出立ちをしています。 この辺りもまったく説明がないのですが、この鉄道が死の世界との連結路であることは想像できます。 複合的世界では生者と死者が同居し、生と死の間には時間の断絶もありません。 そういう世界で、千尋は働くことを通じて自立、成長していきます。 万物に宿る自然界の存在と関わり、その宇宙の中で「生きる力」を獲得していきます。 それが最も具体的に表れるのはハクとの交流です。 ハクは小白川(あるいは琥珀川?)という川の主です。 魔女に名を奪われてハクと呼ばれていますが、本当の名前はニギハヤミコハクヌシ。 ハクは霊的な人格で、それが神なのか精霊なのかは分かりません。 幼時に千尋が溺れた小白川は、その後マンションの建設で埋め立てられました。 ハクは川の主ですから、ハクと千尋の愛の物語は、自然と人間の愛の物語になります。 愛とは、相手を必要とするところから始まります。 物理的にも精神的にも、相手の存在が自分の生存に必要になった時、愛は生れます。 幼い千尋は溺れてハクに助けられます。 異界でも、千尋はハクの手助けで生き延びることができました。 そのお返しに、魔女の契約印を奪って呪いをかけられたハクを、今度は千尋が助けます。 このハクと千尋の関係を、川と人間の関係に拡大して考えてみます。 川と人間の関係、それはいつから始まったのでしょうか。 人間という存在が生れたとき、恐らくそのときから人間は川を必要としました。 水がなければ人間は生きていけないからです。 飲料水に、食物の洗浄に、身体を洗うために、洗濯に。 農耕が始まれば、植物の成育にも欠かせません。 家畜がいれば、家畜の飲用水も必要です。 時には、水遊びという娯楽も提供してくれます。 現代の人間が水道をライフラインと考えているように、川は人間の生命線でした。 しかし、川は幾分気紛れで、恵みをもたらすと同時に荒れ狂うときもあります。 大雨で氾濫し、洪水という災害をもたらします。 ハクやオクサレ様が白い龍であるのは、その徴(しるし)です。 蛇行する川は龍の長い胴体であり、龍が怒れば、その胴はとてつもない破壊力を発揮します。 川は、人間の力を遥かに超えたものです。 エネルギーとして、人知の及ばぬ存在が川です。 すべてを流してしまう巨大なエネルギーを持つ川。 エネルギーとは力をだす元(素)のことです。 人間のエネルギー源は食物と水ですね。 川には食料になる魚も棲んでいます。 その水や食物を、人間は川から授かります。 大抵の食物に含まれる水分も、もとをたどれば川に行き着くかもしれません。 人間にとって川は必要欠くべからず存在です。 当然、そういう存在は大切にします。 ぞんざいに扱えば、その報いは己に帰ってきますから。 一方、川自体もエネルギーが循環しています。 雨が川になって海に流れ、海の水が蒸発して雲を作り、雨を降らせます。 川に棲む魚や自生する植物も、川とエネルギーの交換をしています。 自然は自然で相互に作用しあってエネルギーを循環させています。 そのサイクルに人間を加えるにはどうしたら良いか。 あるいは、そのサイクルから外れないようにするにはどうしたら良いか。 そこに生れた知恵が、原始宗教です。 エネルギーという科学的用語を使って自己流に翻訳しましたが、原始宗教の始まりとはこのようなものではないでしょうか。 人知を超えた自然のエネルギーに頼りながら、その凶暴さを恐れる人間。 自然のエネルギーの循環に加わることは、人間の知恵であり哲学です。 そのためには、人間も川のエネルギーの循環を助けます。 川のエネルギーが順調に流れるように配慮するのです。 広い意味での治水です。 川も人と同じように病む(エネルギーの断絶)ことがあります。 流れが止まって、澱みになってしまったときです。 川が澱むとエネルギーがそこで途絶え、人間には伝わりません。 人間も自然の一部と考えたとき、そこには差異がありません。 人間が人格を持っているなら、自然にも人格があるはずです。 人間に恵みをもたらし、恐ろしい力ももっている自然存在は、人間にとって高位の人格です。 翻訳すれば、高位のエネルギーになります。 そして、人間自身の内部でもエネルギーの循環はおこなわれています。 その循環によって人間は生きています。 人間の外側と内側でエネルギーの循環がおこなわれ、それも繋がっています。 「千と千尋の神隠し」の舞台は異界です。 異界に迷い込んだ千尋は、そこで「生きる力」を獲得します。 あるいは、もともともっていた「生きる力」に目覚めます。 「生きる力」とは、文字通りエネルギーですね。 エネルギーは循環し、連続性の過程で得られます。 映画は千尋が両親を人間に戻し、元の世界に帰っていくところで終ります。 異界と現実世界の連続性、それもこの映画のメッセージです。 過分に単純化した書き方ですが、「千と千尋の神隠し」と原始宗教に対するわたしの考察です。 千尋とハクの愛の物語は、人間と自然の愛の物語です。 愛というものは、見方によってはエネルギーの交換ですね。 与えて、与えられる、エネルギーの交換です。 今、わたし達は水を水道によって享受しています。 蛇口を捻れば水が出てくる水道は便利です。 水道は川から引かれているのですが、そこには断絶があります。 何故なら、今やわたし達には水道管の向こうにある川のエネルギーを想像する力がないからです。 わたしが幼児のときに落ちた用水路。 その小さな川は集落の大切な生活用水だったそうです。 飲料にこそしませんでしたが、米を研いだり、野菜を洗ったり、洗濯をしたそうです。 母が結婚する前までの話です。 集落の一軒が井戸掘りに成功して、その水が集落の生活用水に換わりました。 その前後に、川は汚れがひどくなって使えなくなりました。 上流に市立病院ができ、そこからの排水が川を汚したのです。 この時から、集落と川のエネルギーの交換はなくなり、人は川に住んでいた多くの生物とも断切られました。 コンクリートの歩道の下で、今も流れているであろう小さな川。 あの川の主はどこにいるのでしょうか。 原始宗教の資料調べでWWWを散策していたら、のテキストに面白いこと が載っていました。 アニミズムとアニメーションの語源は同じそうです。 animateは「命を吹き込む」という意があるそうです。 動かない静止画を動かす、つまり命を吹き込むのがアニメーションです。 これは偶然ではなくて、宮崎駿監督は確信犯のような気がします。 <第五十八回終わり>.

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