かごめかごめ ヘブライ 語。 ヘブライ語と日本語の密な関係性から見るユダヤ人と日本人の共通点

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かごめかごめ ヘブライ 語

概要 [ ] は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。 歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。 各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、初期にによって記録されたの歌が全国へと伝わり現在に至った。 野田市が発祥地といわれることから、のの前に「かごめの唄の碑」が建立されている。 を扱っている歌だとされるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている。 歌詞 [ ] 地方により歌詞が異なる。 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀 と滑った 後ろの正面だあれ?• かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀 が滑った 後ろの正面だあれ?• かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?• かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ• かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や)• 籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?• かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だぁれ?• かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ? なお、文献では、このかごめかごめは中期以降に現れる。 『後ろの正面』という表現は、末期以前の文献では確認されていない。 さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。 現存する文献 [ ] 「竹堂随筆」 竹堂随筆 ちくどうずいしゅう :3年()頃に編纂 浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、・年間( - )頃に収録された童謡集 「かァごめかごめ。 かーごのなかの鳥は。 いついつでやる。 夜あけのばんに。 つるつるつっぺぇつた。 なべのなべのそこぬけ。 そこぬいてーたーァもれ。 」 「戻橋背御摂」 戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき :10年()、江戸市村座で初演された芝居 鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。 戻橋背御摂に関しては大南北全集 春陽堂 、鶴屋南北全集 三一書房 などで確認できる。 「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集) 「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集) 「月花茲友鳥」 月花茲友鳥 つきとはなここにともどり :文政6年()、市村座で初演された浄瑠璃。 清元全集 日本音曲全集刊行會 、日本歌謡集成 春秋社 などで確認できる。 「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」 「幼稚遊昔雛形」 幼稚遊昔雛形 おさなあそびむかしのひながた :15年()に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集 「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる よあけのまえに つるつるつッペッた なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ(孫引き)」 「俚謡集拾遺」 俚謡集拾遺 りようしゅうしゅうい :(4年)刊行 (38年)、文部省により各都道府県から集められ、(大正3年)に刊行された「俚謡集」に収録されなかったものを集めたのが俚謡集拾遺である。 「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(つ)ウベッた。 」 東京 「籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ。 」 長野県 「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ」 新潟県 「かごめかごめ」に関する俗説 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2011年8月) この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。 ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。 また、この歌の発祥の地についても不詳である。 姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない、の所在を謡ったものとする俗説などがある。 歌詞の解釈 [ ] 解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。 以下に一部を紹介する。 「かごめ」 [ ]• 籠目、すなわち竹で編まれた籠の編み目を表す。 「囲め」が訛ったもの。 つまり、かごめ遊びをする際に、皆で「囲め、囲め」と呼び合っている。 「屈め」が訛ったもの。 つまり、かごめ遊びをする際に、オニに対して「屈め、屈め」と言っている。 籠目の形、すなわち六角形のことである。 籠目の形、すなわちのことである。 「籠女」と書き、見た目が籠を抱いているような女性、すなわち妊婦のことである。 「カーゴ(Cargo)」に乗る役目。 処刑場を囲んだ竹垣を表している。 「かごめ」は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)である。 即ち、神の雰囲気を具える女、日本で古くから厚く信仰されていた祈祷を行う「巫女」 ミコ、預言者 や「斎宮」の意味である。 「かごのなかのとり」 [ ]• 「籠の中の鳥」であり、当時の風俗から考えて鳥は鶏である。 かごめ遊びの中で、オニとなった人を「籠の中の鳥」に喩えている。 「籠の中の鳥居」と解釈し、籠に囲まれた小さな鳥居、もしくは竹垣に囲まれた神社を表している。 ある点を籠目の形(六角形または五芒星)に結んで出来た図形の中心に存在する物を指している。 籠目の形をした空間の中心に存在する物を指している。 籠女(妊婦)の中にいるもの、つまり胎児のことを指す。 子供のことである。 「とり」=トリをとる人。 祭り等で、最後の締めをやる人。 最後尾に就いて、取り溢しが無いように皆を追い上げて、締めをする人。 処刑されることが決まっている牢屋の中の罪人 「いついつでやる」 [ ]• 「何時、何時、出会う」であり、「何時になったら出会うの?」「いつになったら出て来るの?」と疑問を投げかけている。 「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行くの?」と疑問を投げかけている。 「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行けるの?」と疑問を投げかけている。 「何時、何時、出遣る」であり、「いつ、出現するか?」「いつ、出て来るのか?」と疑問を投げかけている。 「何時、何時、出やる」であり、「何時になったら出るのかな?」と疑問を投げかけるのであるが、「出やる」の「やる」は西日本で、目下の者や愛玩動物に対して親しみを込めて使う敬語的語彙であり、共通語で的確な訳語がないが、「出やがる」に親しみのニュアンスを持たせたとでも云うべき意味を持つ。 「何時、何時、出遣る」であり、「(罪人が処刑されるために)いつ(牢屋の外に)出て来るのか?」と疑問を投げかけている。 「よあけのばんに」 [ ]• 「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。 「夜明けの番人」であり、籠の中の鳥、つまり鶏のことである。 「夜明けの晩に」は「夜明けから晩に至るまで」という意味であり、「朝早くから夜遅くまで」という時間の経過を表している。 「夜明けの晩」つまりは光を見る前であり、胎児からの視点では臨月に当たる。 「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。 つまり「夜明けの晩」とは「存在しない時間」のこと。 「夜明けの晩」つまり「夜明け」の「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」を指している。 「夜明けの晩」つまり「夜明けとも言える晩」であり、午前4時前後の時間帯を指している。 「つるとかめがすべった」 [ ]• 「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。 「鶴と亀が統べた」であり、鶴および亀に象徴される為政者(または建造物)を表している。 「鶴と亀が統べった」であり、鶴および亀に象徴される為政者が、「統治した」と「滑った」を掛けてある。 京都に伝わる童謡の歌詞「つるつる つっぱいた」が変化したもので、「ずるずると引っ張った」という意味である。 の「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。 とを統べるでが統治。 「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまりが「統治する(陰で操る)」という意味である。 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということで、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している。 「うしろのしょうめん だあれ」 [ ]• 「後ろの正面」は、真後ろを表し、「真後ろにいるのは誰?」と問うている。 「後ろの正面」は「鬼」の背面(背中側)を指す。 「後ろの正面、誰?」は、「後ろを向いた時に正面に居る人は誰?」との意味。 転じて、逆の存在・影の指揮者・取り憑いていた存在等を表す。 江戸時代、京都で「正面」と言えば大仏殿を指し、正面の後ろに葬られた人物()を連想させている。 された首が転がって、体は正面を向いているけれど首が後ろを向いて、「私を殺したのは誰?」と問うている。 または、死んだことに気付かず目の前の首がない体は誰のものだろうと疑問に思っている様子を表している。 ただし、この「しょうめん」の部分の歌詞は、一部の地域では「しょうねん 少年 」とする場合もある。 「後ろの正面」は、真後ろを表し、「(罪人の首を斬るために)真後ろに立つのは誰?」と尋ねている。 の出身地 から の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀のを所蔵している がある()になる。 歌全体の解釈 [ ] 「かごめかごめ」はその歌詞の、論理のおかしさ、普通ではなく合理的でない所が、人間の類推の能力に働きかけ、聞く人を楽しませる、面白味のある言葉遊びの歌として日本中に流行したとする説。 主に女児の遊ぶ「かごめかごめ」は、歌の冒頭で一人の目の見えない状態の女児を複数の女児が取り囲み「かごめ かごめ」と囃し立てるところから始まる。 ここでの「かごめ」は、「囲め」と「籠のなかの女」と「格子状で隙間のある」等の複数の意味を持つとなっている。 次に「かごのなかのとりは」で、冒頭の「かごめ」の意味を「鳥類のかもめ」 の意味へ一転させ、取り囲まれた女児を「鳥が囲まれている(とりかこまれている)」「籠の中の鳥」等と意味付けている。 次に「いついつでやる」で、「鳥はいつ籠から出ていくのか」「答え合わせはいつだろう」という期待感を持たせると同時に「鳥が誰かと会う」ことをし、多義性を持たせている。 次に「よあけのばんに」で「夜が明けた晩」という、「朝と夜の順序が逆」というを用い、疑問と混乱を誘うおかしみを出している。 そして「つるとかめがすべった」で、「鳥は鶴だった」と「かもめ」から一転させ、「鳥が出会ったのは亀であった」という拍子抜けを誘い、「縁起の良い鶴と亀が滑って転んだ」という失敗へのを持たせ、最後に「うしろのしょうめんだあれ」で「後ろなのに正面」という、「誰が真後ろにいるかを当てて頂戴」という多義性を持たせている。 後ろの正面は誰?」と解釈する。 ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。 遊女説(提唱者不明) 一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。 説(提唱者不明。 埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている) 日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。 豊國廟説(など) 正面とは京都の周辺(現在の正面通り)を指し、を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。 埋蔵金説(提唱者不明) 「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。 陰謀説(提唱者不明) 「かごめ」は 籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。 その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。 出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちてしてしまった。 自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。 囚人説(提唱者不明) かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。 籠の中の鳥=オニは囚人である。 鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。 後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。 いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。 明智光秀・南光坊天海同一人物説() の正体が、に敗れた後も生き延びたであることを示唆しているとする説。 鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他にとの意味もあるとする。 ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。 神示説(提唱者不明) 「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。 歌詞解釈以外の俗説 [ ] 降霊術説 「カゴの中の鳥は」と歌っているところで円の中に人がいなければ霊を呼び出すという、と同様のに使われる歌であるという説もある。 呪術説 真ん中の子供に神様を宿らせるまじないであったとする説。 遊戯説 影の支配者を当てる遊戯。 関連項目 [ ]• 「」 - 著の児童文学作品• 「」 - の楽曲(作詞:将/作曲:アリス九號)。 「うしろの正面だあれ」 - の楽曲。 アルバム『』収録。 「」 - の楽曲(作詞:/作曲:)。 曲中に引用。 「カゴノトリ」 - ("橙色特別室"名義)による『』『』の楽曲。 曲中に引用。 - ヤングカジュアル婦人服を中心とした企画・製造・販売会社。 CMに「かごめかごめ」の替え歌が使用されている。 出典・脚注 [ ] []• 『-第五版』、。 『民間伝承論』共立社、1934年、181頁。 『放送禁止歌』知恵の森文庫、2003年 30、231頁。 原書は活字に起こされ『続日本歌謡集成』((36年) - (昭和39年))にて出版。 この説をとるものとして、例えば、柳田國男「こども風土記」がある(定本柳田國男全集21巻8頁)。 日光の慈眼堂には天海の廟所がある。 もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。 『陰謀と暗号の歴史ミステリー』2008年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社• 国土交通省北陸地方整備局. 2015年11月12日閲覧。 2006年10月7日時点の [ ]をアーカイブ。 参考文献 [ ].

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かごめかごめ ヘブライ 語

昨日は、関西に描かれた巨大な「六芒星」と「逆五芒星」の意味、そして「かごめかごめ」の歌詞の意味についてお話をしました。 昨日の記事は以下のリンクになります。 )意味が隠されているということが分かっています。 そのため、昨日の記事を書いた後、日本語の意味だけでなく、ヘブライ語の意味もきちんと解釈すべきではないかとのメールを何人かの方からいただきました。 なぜなら、日本語とヘブライ語は「陰」と「陽」になっているから、というわけです。 こうなると、私のブログが何かしらオカルトめいたものになってしまいそうで、ちょっと嫌だなとは思ったのですが、よくよく考えてみると、私たちの敵は悪魔崇拝者であり、彼らこそがこの世にオカルト思想をまき散らした張本人です。 したがって、彼らの裏を暴くためには、どうしてもオカルトめいた部分を追求することも欠かせません。 それに、政治や経済には興味がなくても、こういったオカルト的な部分から裏社会の陰謀に興味を持つようになる人も出てくるだろうとも思いましたので、とりあえず今日はこの「かごめかごめ」のヘブライ語の意味を解釈してみようと思います。 「かごめかごめ」をヘブライ語に訳すと以下のようになります。 ———————————— かごめかごめ 「カゴ・メー カゴ・メー」 (誰が守る) かごの中の鳥は 「カグ・ノェ・ナカノ・トリー」(硬く安置された物を取り出せ) いついつでやる 「イツィ・イツィ・ディ・ユゥー」(契約の箱に納められた) 夜明けの晩に 「ヤー・アカ・バユティー」(神譜を取り、代わるお守りを作った) 鶴と亀がすべった 「ツル・カメ・スーベシダ」(未開の地に水を沢山引いて) 後ろの正面だ~れ 「ウシラツ・ショーメン・ダラー」(水を貯め、その地を統治せよ!) ———————————— 『誰が守る? 誰が守る? 堅く安置された物を取り出せ 契約の箱に封じ納められた 神器を取り出せ 神譜をとり 代わるお守りを作った 未開の地に 水をたくさん引いて 水を貯め その地を統治せよ』 ———————————— 確かに、一見すると、何やら意味深なことが書かれているような感じがしますが、私のように聖書を沢山読んだ人間からすると、単にふざけたことが書かれている歌詞だなとしか思えません。 なのに、生半可な聖書の知識でこの歌詞を無理やり解こうとして、何やら訳の分からない複雑な解釈をしている方がネットでは沢山見受けられます。 しかも、この歌詞から何か肯定的な意味合いを汲み取ろうとまでしています。 はっきりと言わせてもらえば、この歌詞には何ら肯定的な意味など込められていません。 ここにあるのはただ神様ヤハウェに対する冒涜です。 それ以外の何物でもありません。 そりゃあそうでしょう。 この歌詞を書いたのは悪魔崇拝者なのですから。 ただ、悪魔崇拝者たちも、神様への冒涜であると誰にでもすぐに分かるような歌詞を書くことはしなかったようです。 そんなことをしたら、誰にもこの歌を歌ってもらえなくなると思ったからでしょう。 だから一見して、神様を讃える歌であるかのような歌詞を作ったのだと思います。 それが彼らの常套手段です。 バチカンにいる悪魔崇拝者たちも、自分たちが神様を敬っているかのように何百年と装ってきたわけですし……。 それでは、この歌詞を解釈していきます。 まず「堅く安置された物を取り出せ 契約の箱に封じ納められた 神器を取り出せ」の部分です。 「堅く安置された物」も「契約の箱に封じ込められた神器」も、ともにモーセが神様から授かった「十戒」のことを表していると思います。 それ以外には考えられません。 「十戒」とは十の戒めのことです。 この「十戒」を刻んだ石版が、契約の箱(いわゆる失われたアークのこと)の中に収められていたのです。 神様ヤハウェがそうするよう命じたのです。 「神譜」というのも、恐らくこの「十戒」のことを表すのでしょう。 ですから、「堅く安置された物を取り出せ 契約の箱に封じ納められた 神器を取り出せ 神譜をとり 代わるお守りを作った」という歌詞の意味はこうなります。 契約の箱から「十戒」の石版を取り出せ、代わりにお守りを作ったから、そのお守りを契約の箱の中に収めよう。 まともなユダヤ教徒からすれば、これは狂気の沙汰としか思えないでしょうね。 「十戒」こそユダヤ教徒たちにとって何よりも重要なものであり、その代わりのものを作って契約の箱の中に収める、などということは絶対にあってはならないことです。 というより、最初からそんなことをしようとすら考えつかないでしょう。 この時点で、この歌詞がいかにおかしな歌詞であるかが分かります。 では、代わりのお守りとは何なのか。 モーセがイスラエル民族をエジプトから脱出させたとき、モーセはシナイ山で神様から「十戒」を授かりました。 しかし、モーセがシナイ山にこもっている間に、イスラエルの民衆たちは金の子牛の象を作り、拝んでいました。 これまで何度も話してきました通り、偶像を作って拝むという行為は、神様ヤハウェから見れば最大の反逆行為にあたります。 しかし、イスラエルの民衆の中には、このときすでに沢山の悪魔崇拝者たちが混ざっていたため、このような冒涜行為を堂々とやって楽しんだわけでしょう。 したがって、この「代わるお守り」とは、「金の子牛の像」のことを表していると考えられます。 これだけ見ても、この歌詞が神様への冒涜だと分かります。 しかも、さらにここには「未開の地に 水をたくさん引いて 水を貯め その地を統治せよ」と書かれてあります。 聖書を何も知らない人は、一見すると、何かとても良いことが書かれてあるように思うでしょう。 しかし、この「水」もまたくせ者なのです。 モーセは、イスラエルの民衆が金の子牛を拝んでいるのを見て怒り、金の子牛を燃やし、それを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた、と聖書に書かれてあります。 以下、旧約聖書の「出エジプト記」から転載します。 「モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた」(出エジプト記32章19〜20節) この「水」はある意味、神の怒りと言ってよいものです。 したがって、神の怒りを民衆に飲ませた、ということは、民たちが神の裁きを受けたということを意味します。 そして、「かごめかごめ」の中では、この神の怒りを表す「水」を未開の地にたくさん引いて貯めよ、とあります。 これはつまり、この地に神の怒りをたくさん招くようにせよ、ということを意味します。 したがって、この「かごめかごめ」歌詞全体からは、こんな意味が浮かびあがってきます。 『誰が守る? 誰が守る? 守れるわけがないだろう。 さあ、堅く安置された十戒の石版を取り出せ。 契約の箱に封じ納められた十戒の石版を取り出せ。 代わりに金の子牛を作ったから、これを契約の箱に入れよう。 そして、この未開の地に神の怒りを招くように、神の怒りをたくさん溜め込むように、この地を統治してやれ』 さらに分かりやすく意訳してみます。 『神様の掟なんか早く捨ててしまえ。 そんなものより偶像だ。 偶像を作って、神の怒りを招いてやれ。 バカな未開人どもの地に神の怒りをたくさん溜め込むよう誘導しながら、この地を統治してやるのだ。 』 このように、「かごめかごめ」の歌詞には何の善意もありません。 善意を汲み取ろうとするだけ無駄です。 中には、この「かごめかごめ」の歌詞の中に、失われたアーク(契約の箱)の隠し場所が示されていると言う人もいますが、まさかそんなわけがないでしょうが。 どうしてユダヤ人たちがわざわざそんなものを日本に運び込んだりしますか。 仮に百歩譲って、失われたアークが日本に隠されているのだとしても、それが私たち日本人にとって何の意味があるというのでしょう。 箱は箱です。 ただの箱です。 それが見つかったからといって、我々日本人に何か良いことが起きるわけでもありません。 第一、この契約の箱は、ユダヤ教徒にとってのみ尊いものであって、同じ聖書を信じるキリスト教徒にとってすら何の意味もないものです。 ましてや、聖書を何も知らない、読んだこともない日本人にとって、一体どんな意味があるというのでしょうか。 にもかかわらず、日ユ同祖論を論じる人の中には、この失われたアークが日本で見つかったら何か凄いことが起きるかのように話す人がいます。 全くもって愚の骨頂です。 昨日もお話しましたが、そんな神秘思想まがいものに私たちは騙されてはいけません。 私はこれまで聖書は素晴らしい本だと何度も薦めてきましたが、そのため、私が何かしら神秘思想のようなものを持っているのではないかと勘違いしている人がいるかも知れません。 しかし、はっきりと言います。 私はこの世のどんな人よりも現実主義者です。 確かに聖書の中には、不思議な奇跡の話がたくさん出てきます。 そして、この世のクリスチャンの多くが、そのような奇跡が実際に起きたと信じています。 しかし、私はそのような聖書の中の奇跡はすべて本当に起きたものではなく、何かしら解釈を必要とするものであると考えています。 というのも、イエス・キリスト自身、聖書はすべて比喩で書かれているとはっきりと言っているからです。 例えばこんな風に。 「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。 」(ヨハネによる福音書16章25節) 聖書は言ってみれば封印の書です。 わざと意味が分からないように全てが比喩で書かれてあるのです。 だから、とても難解なのです。 しかし、私はその難解さに惹かれて聖書を読むようになりました。 今現在、起こりえない奇跡は、二千年前にも起きるわけがありません。 今の時代も、過去の時代も、自然万物の法則に変わりはないからです。 そもそも、宗教というものは本来、何か奇跡が起きることを期待して信じるものではなく、人間の徳を高めるために信じるものです。 そこをはき違えるようになったのは、やはり悪魔崇拝者たちがそのように宗教の意味をねじ曲げてしまったからでしょう。 人の徳を高めるためではなく、何らかのご利益のために宗教を信じるように彼らは誘導してきたのです。 カルトがこの世に沢山誕生するようになったのも、やはりそういった背景から来ているのだと思います。 現在のキリスト教も、悪魔崇拝者たちによってその教理がことごとく破壊されてしまったため、絶対に起こりえない奇跡まで本当に起きたと言って、無理やり信じさせようとします。 そのため、キリスト教の教えそのものは実に素晴らしいものでありながら、聖書をまがいものだと思って勘違いし、捨ててしまう人が絶えないのです。 私のブログを読んで、聖書に興味をお持ちになった方も多いようですので、一応、聖書を読む際にはこの点に注意してください。 この世の聖書の解釈本の中にも、聖書の奇跡をそのまま信じて書かれたようなものがたくさん出回っていますが、そういったものにも要注意です。 聖書だけに限らず、この世に出回っている神秘思想、超現実的な話にも気を付けなければいけません。 そこには何かしら隠された裏社会の意図があります。 特にこの日ユ同祖論に関して、何かしら良い意味をこめて話をする人には要注意です。 もしかしたら裏社会の連中は、今後、日本礼賛、天皇礼賛キャンペーンを張っていくために、この日ユ同祖論なるものを引き合いに出してくるかも知れません。 そうして、日本人は実は神様から選ばれた民だった、天皇もまた神様に選ばれた尊い方である、などと宣伝していくかも知れませんし、実際にそのようなことが書かれたブログがネット上では既にあちこちで目に入ります。 ネットでそのようなプロパガンダを流し、それが世間にやや浸透したところで、テレビで「ネットでこんなことが騒がれている」などと報じ、全国民に日ユ同祖論を知らしめ、日本人は神様に選ばれた選民であるとの思想を植え付けようというつもりなのかも知れません。 なんとなく、彼らのそんな意図が透けて見えてきます。 確かに、そういうブログを幾つも作っておけば、いずれそのうちの一つや二つが大きな旋風を巻き起こすかも知れませんからね。 要するに「数打ちゃ当たる」というわけです。 そのため、私のブログにも、それに類したコメントを書く工作員が次々と現れるわけでしょう。 とにかく、日ユ同祖論をまるで日本人にとって良いことであるかのように言う人には要注意です。 以下のリンクを読んでいただけば、それがいかにデタラメであるかが分かっていただけると思います。 しかも、彼らはそこに必ずといっていいほど神秘思想を織り交ぜます。 現実的にそれらを分析すると、そこには裏社会の悪意しかないことがバレてしまうので、わざと「ガイアの周期が何たら」などと小難しい神秘思想を織り交ぜながら、人工地震やリーマンショックなどを、まるで良きことの訪れであるかのように人々を惑わそうとするわけです。 何度も言ってきました通り、阪神大地震もリーマンショックもすべては裏社会の工作によるものです。 それらは自然現象ではなく、人為的に生み出された災いなのです。 詳しくは以下のリンクをご覧ください。 そうしたときにのみ、私たちはこの世の本当の真実を知ることができるのです。 RAPTさん、今日もすごいわね。 私たちは、せっかく目覚めたのですから、とことん目覚めたほうがいいのです。 目覚めたところで、弱い自分に出会って、つい、何かにすがりたい思いにかられるのだと、 思います。 そうしたときに、この日ユ同祖論など、あるいは他の占い師などの未来予想などに、 心を奪われてしまうのでしょう。 せっかく目覚めたのに、また騙されてしまっては、もったいないですね。 騙しの世界に生きている、世の中コマーシャルに満ちている。 そう思って、検証を続けるべき です。 真実がわかってからが、本当の人間になる、第一歩が始まったところです。 難しいこともありません。 ただ本当のことのみを、探索する旅に出ただけのことです。 お聞きしていいですか? 私はプーチンファンということもあり またソ連時代の迫害の時の人々の様子を本で読み ロシア正教に興味をもっています。 悪魔からあれほど嫌われたということは ロシア正教には悪魔が入らなかったとかってに感じているのですが いかがでしょうか。 また処女懐妊など 私はあり得るなどと思ってしまうのですが それはやはり とてもおかしいとらえ方でしょうか。 また神道からすでに悪魔であったなら 日本という国は悪魔の歴史が長く あるいは悪魔が造った国なのか という かなりの悲惨な気持ちもあり なぜ 悪魔の国に生まれたのか(笑)と やはり劣等感に満たされます。 お気持ちの向いたときに 言葉を聞かせてくださいますように。 ロシア正教はまだバチカンよりも悪魔崇拝書による影響は少ないかも知れませんが、もしキリスト教を学びたいのであれば、何もどこかの宗派にこだわる必要はないのではないかと思います。 聖書がキリスト教の聖典なのですから、聖書から必要なものを学べばいいと思います。 そうすれば、この宗派は大丈夫だろうかとビクビクすることもありませんし。 また、日本だけが悪魔崇拝者によって作られたわけではありません。 この世界のほとんど全ての国が彼らの影響下にあります。 しかし、だからといって、悪魔が万能なわけではありません。 もし彼らが万能であれば、とっくの昔にこの世界は悪だけがはびこる世界になっていたでしょう。 そうならなかったのは、やはり悪魔よりも神の力が強かったからとも言えるでしょうし、人類の多くが良心を捨てなかったからとも言えます。 恐らくこれからも悪魔はこの世界を完全に支配することはできないでしょう。 ですから、劣等感を抱く必要は全くないと思います。 raptさんのサイトは多くの人が見ますから、 もしかして、と断っていいますが、 今回の衆議院選挙で、自民党が負けると思われます。 それももしかしたら、計算のうちで、今度は富士山が爆発噴火に なるかもしれないですね。 阪神大震災の時は村山氏が首相でした。 救助も妨害されました。 東大震災は民主党で、菅首相も妨害されました。 今度は、板垣氏によると、世界のファミリーはこのような人を 希望していますと、書いてありました。 それも操作でしょう。 自民党が勝っても爆発する可能性もあります。 しかし、2度もあったことですから、3度目もあると私は 思っていますよ。 相手は、悪魔ですから。 まだ、日本人をめちゃめちゃにするつもりでしょう。 このことを、皆が知ることが一番大切だと思っています。 むろん何事もないことを、祈っています。 何かのご利益お信じて祈る、言われてみれば神道ってそうですよね。 神社ってお賽銭入れるんですから(笑) 前提が逆ですよね。 例えば「いいことすればいいことあるかもよ」という教えだって、はなから「いいことある」の部分を期待して信じる人間は決してその教えを信じていようと、いいことはしない、というかできるわけがないだろうし、いいことも起こらないでしょうね。 あくまで「いいことをする」ということを人間にとって大切だと教えるのが前提だったはずですね。 それに、いいことが起こるにしたって、そのいいことをした結果、それによっていいことが起きるのですから、そもそも奇跡ではなく、因果なのですからね。 まあ、考えてみれば「いいことすれば、いいことあるかも」という言い方自体、「いいことある」を期待させるよう誘導しているように思えてもきますがね。 人気記事• - 715,880 views• - 513,286 views• - 433,278 views• - 376,466 views• - 373,187 views• - 371,034 views• - 327,707 views• - 315,516 views• - 310,694 views• - 307,919 views• - 289,701 views• - 273,898 views• - 255,874 views• - 254,881 views• - 253,960 views• - 253,347 views• - 246,289 views• - 244,473 views• - 237,236 views• - 234,784 views.

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かごめかごめ ヘブライ 語

【都市伝説】かごめかごめの歌詞の意味と怖い話の由来についてを調査 2018. 20 明日の佐々木 幼いころ、誰もが一度は歌って遊んだことがあるでしょう「かごめかごめ」という童謡。 かごめかごめ~という歌詞から始まるこの歌は、座っている1人の周りを、手を繋いだ数人でぐるぐると回りながら歌うという遊び方で親しまれていますね。 しかし、何気なく歌っているこの「かごめかごめ」の歌詞には、隠されたある意味や由来、都市伝説の怖い話などがあるのをご存知でしょうか? 今回は、その「かごめかごめ」という童謡の隠された意味や由来、思わずぞっとしてしまう都市伝説の怖い話について調査してみましたので、是非ご覧ください! 流産してしまったお母さんの恨みの話 あるところに、お腹の中に赤ちゃんを身ごもったお母さんがいました。 (歌詞中の「籠の中の鳥」が、赤ちゃんを表している。 ) いつ生まれてくるのかな…と、お母さんは赤ちゃんが産まれてくる日を楽しみにしていました。 (「いついつ出会う」という歌詞から読み取れる感情) しかし、ある夜のこと。 安産を願うために神社を訪れ、帰ろうと階段を下っていたところ、誰かに背中を押されて転んでしまい、お腹の子を流産することになってしまったのです。 (「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」の歌詞から読み取れる状況) 大切な子供を失う事になってしまったお母さんは、背中を押した人の事が許せず、犯人は誰なのか探している。 (歌詞の「後ろの正面だあれ」には、お母さんの怒りの感情が含まれている事が伺える。 ) という、怖い話があります。 この話は、 子供を失ったお母さんの怒りの話という事ですが、実際に流産となり、生まれてくることが出来なあった赤ちゃんが犯人を探しているという説もあります。 確かに怖い話ですが、恐ろしさを感じる反面、見方によっては少し悲しいお話にも感じますね。 ・・・でも、やっぱり怖いですが。 かごめかごめをすると、怪奇現象が起こる!? このように、思わずぞっとしてしまう様な怖い話がある「かごめかごめ」ですが、 この歌を歌いながら遊んでいる怪奇現象が起こるという都市伝説も! それは、最後の歌詞「後ろの正面だあれ」を歌い終えると、円の中に座った人が、先ほどご紹介した怖い話に出てくる流産になった赤ちゃんに、背中を叩かれるというものだそうです。 また、そもそも この円になってぐるぐる回るという行為自体にも、霊を呼び寄せる意味があるようです。 地域によって歌詞が違う理由 今回ご紹介した童謡「かごめかごめ」ですが、地域によって歌詞が異なっている事がわかりました。 例えば、「いついつ出会う」が「いついつ出やる」だったり、「夜明けの晩に」が「夜明けの番人」だったり。 歌詞が異なるので、もちろん語られる都市伝説も内容が変わってきます。 同じ有名な童謡なのに、なぜんこんな事が起こってしまうのか? 実は、それに関する有力な説があったのです! 「かごめかごめ」の歌詞は不自然!? かごめかごめの歌詞をよく思い出してみて下さい。 全体的に、歌詞を見ただけでは内容がいまいち掴みづらいですよね。 また最後の歌詞「後ろの正面だあれ」も、不自然です。 「後ろ」と言っている時点で「正面」ではありませんよね? 「後ろの正面」なんていう言葉は、日本語的に不自然なのです。 地域によって歌詞が違うのは、元々日本語の歌ではないから!? 実は、 元々この「かごめかごめ」は、日本語の歌詞ではないという説も浮上しているのです。 と言うのも、この歌は元々ヘブライ語の歌詞だったという説があります。 「かごめ」という言葉も、囲む、守るというような意味を持つヘブライ語の「カゴー」と、誰なのか、何なのかという意味を持つヘブライ語の「ミー」という言葉が合わさって出来たものだと言われています。 このように、すべてヘブライ語で構成された歌詞を、日本語で語呂合わせしたのが、昨今に知られている「かごめかごめ」の歌詞なのです。 このことから、地域や地方によって、多少の歌詞の違いが生まれていったのでしょう。 この説が正しければ、「後ろの正面」なんて言葉が出てくるのも、腑に落ちるような気がしますね。 因みに「後ろの正面」は、「フーシャー」と「ショーメム」というヘブライ語を日本語に語呂合わせしたものだと考えられているようです。 まとめ かごめという言葉自体にも様々な意味や由来があることや、「かごめかごめ」の一連の歌詞を通して語られている都市伝説の怖い話、そして実はヘブライ語の歌だったという説などについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか? 少し怖くなってしまいましたか? しかし、ヘブライ語の説に関しては驚きでしたね。 私はこの説が一番しっくりときました。 ちなみに、私が幼いころは「後ろの少年だあれ」と歌っていましたが、調べたところこの歌詞に関する都市伝説などはありませんでした。 このように、歌っていたのは私たちだけだったのでしょうか。 また、この歌に関しては歌うと呪われるなどと言った話はあまり聞きませんが、実際にこの歌を歌って遊ぶ際に行う、円になってぐるぐると回る行為には霊をおびき寄せる意味合いがあるとのことでしたね。 とは言っても、みなさんは既に「かごめかごめ」で遊んだ経験があると思いますので、恐らく大丈夫だとは思いますが…念のため、頭に入れておきましょうね。

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